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.政治  投稿日:2022/7/12

死せる安倍氏、有権者を走らす 弔い合戦大勝、過去には敗退したことも


樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)

 

【まとめ】

・参院選は自民が圧勝した。過去、選挙戦さ中の政治家の死では、同情票による勝利もあれば、逆に敗北したケースも少なくない。

・安倍元首相の死を受け、より多くの人が投票所に足を運んだのは間違いないだろう。しかし、有権者は一人一人の判断で投票した。

・安倍氏の死と選挙結果を結びつけるのは意味がない。有権者は民主主義の基本を実践しただけ。

 

あたかも安倍元首相の〝弔い合戦〟となってしまった参院選は予想通り自民党が大勝した。

今回の事件が結果にどのような影響をもたらしたのか推し量ることはできない。感情で投票することは禁物という指摘もある。

しかし、安倍氏を惜しむ声が内外で燎原のように広がるのをみるにつけ、やはり自民党に多くの〝同情票〟が投じられたことは想像できよう。

振り返ってみれば、「政治家の死と選挙」のかかわりは過去、絶無ではない。遺志を受け継ぎ、同情票による勝利は少なくない。

反面、逆の結果、霊前に勝利を報告できなかった選挙戦も少なからずあった。   

今回のケースはあるにしても、情に脆いといわれる日本社会において、有権者は情に流されずに票を投じていると指摘する専門家もいる。

 

衆参同日選のさ中に急死した大平首相

今回の事件で思い出すのは、殺害ではないが、1980年、初の衆参同日選のさなかに、大平正芳首相が急死したケースだ。

 

写真)故大平正芳首相の内閣・自民党合同葬(1980年7月9日 日本武道館)

出典)Getty Images

1978年暮れに就任した大平首相は翌年秋、大型間接税の必要性を訴えて衆院を解散した。結果は過半数割れの惨敗、これを機に退陣要求が高まって、〝40日抗争〟と呼ばれる激しい党内対立が展開された。

いったん終息したかにみえたが、しこりは解消されず、翌年5月、野党が提出した内閣不信任案に自民党の反大平勢力から同調者が続出、可決されてしまう。

首相は衆院を解散、参院選が間近に迫っていたため、投票日を両院同日とするダブル選挙を決断した。

参院選が公示された5月30日の遊説後、大平氏は体調不良で急きょ入院、6月12日に急死した。心筋梗塞だった。

ダブル選挙は6月22日に投票が行われたが、自民党は衆参で安定多数を大きく超える大勝、大平氏は文字通り命をかけて政局の安定を勝ち取った。

前年秋以来、党内反主流派からの攻勢にさらされ続けて憤死した大平氏への同情票だったのは明らかだった。

 

■ 総選挙演説の最中に刺殺、党は大勝

浅沼稲次郎という名を年配の人なら覚えているだろう。

日本社会党(社民党の前身)委員長として、1660年の日米安全保障条約改定反対運動を指導した。

この年の10月、当時の池田勇人内閣が衆院を解散する直前、東京・日比谷公会堂で演説のさ中、多くの聴衆の目の前で刺殺された。犯人は17歳の右翼の少年だった。

事件の約1か月後に行われた総選挙では、社会党は劣勢といわれた下馬評を跳ね返して23議席増、同党から分派した民主社会党は、ちょうどその数だけ議席を失った。自民党は13議席増だった。

写真)浅沼稲次郎

出典)Photo by FPG/Hulton Archive/Getty Images

社会党への同情票が増した理由のひとつは、池田勇人首相による浅沼氏への哀惜のこもった追悼演説だったといわれる。

「沼(浅沼氏のこと=筆者注)は演説百姓よ。汚れた服にぼろカバン。今日は本所の公会堂、明日は京都の辻の寺」ー。

常に大衆に語りかける浅沼氏の飾らない人柄、政治姿勢を読んだ昔の同僚の詩。これを朗読して議場をシーンとさせたことが、国民の浅沼を惜しむ感情につながった。

■ 家族が身代わり、敗れたケースも

弔い合戦が敗戦に終わった例としては2007年の長崎市長選がある。

4選を目指す現職の伊藤一長氏が遊説を終えて選挙事務所に戻ったところ、暴力団員の男に拳銃で射殺された。安倍氏殺害と似通った事件だった。候補者を失った伊藤陣営は、補充候補として急遽、娘婿を出馬させたが、健闘およばなかった。

このとき、「市長職は特定の家族のものではない」と訴えて当選したのは現在の田上富久市長だ。

 

■ 元蔵相は暗殺、党は大幅議席減

さかのぼること戦前。1932年2月の総選挙中、日銀総裁、蔵相などをつとめた著名な財政家、井上準之助氏が、応援演説会場の東京・本郷の小学校で右翼団体「血盟団」の青年に拳銃で撃たれ死亡した。

政友会、民政党2大政党が激しく対立する時代。井上氏は政友会系ながら民政党の浜口雄幸内閣(浜口首相も前年に暗殺)の蔵相として、金輸出を解禁して緊縮財政を断行、軍事費を削減したことなどが恨みをかった。

この時井上氏が支援した民政党は勝利はおぼつかず、選挙前から100議席も減らす惨敗、与党政友会が30議席上積みした。

こうした劇的なケースばかりではなく、候補者が選挙中に病死し、やはり〝身代わり〟が出馬したケースでも、勝利、敗北の結果が半ばする。

1996年の総選挙。兵庫11区の戸井田三郎候補が投票日の一週間前に急死、次男の徹氏が身代わりとなって見事当選を果たした。

1986年の総選挙で、熊本1区の藤田義光候補は出陣式で倒れ、そのまま亡くなった。身内が代って選挙戦を戦ったが、勝利の報告はかなわなかった。

 

■ 安倍同情票、結果に影響もたらさず

弔い合戦では必ずしも勝利を手中にすることができなかったケースが少なくないことは、意外感をもって受け止められるかもしれない。

専門の経済学だけでなく社会評論でも鋭い視点を持つ京大の佐伯啓思名誉教授はこう分析する。

「今回の選挙では、安倍さんの殺害によってより多くの人が投票所に足を運んだのは間違いないだろう。その死を悼んで自民党に投票した人もいたかもしれない」「しかし、それと選挙結果を結びつけて考えるべきではない。多くの有権者は一人一人の判断で投票をしたのだろう。安倍さんの死と今回の選挙を結びつけるのは意味のないことだ」ー。

民主主義への重大な挑戦ともいえる凶悪事件を受けて、有権者が民主主義の基本を実践したとなれば、衝撃、悲しみの中でのわずかな慰めになるかもしれない。

トップ写真:自民党総裁選で支持者と握手する安倍晋三首相(2018年9月19日 東京・秋葉原)

出典:Photo by Tomohiro Ohsumi/Getty Images




この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長

昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

樫山幸夫

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