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.政治  投稿日:2021/10/17

首相就任初の総選挙は鬼門か


樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)

【まとめ】

・歴代総理大臣最初の解散・総選挙は、ホロ苦い結果。

・過去には、国民的な〝ブーム〟で大勝のケースも。

・岸田文雄首相は、自らの信を問う意向だが、前政権の不人気を背負って敗北する恐れもある。

 

総選挙は10月19日に公示される。

岸田首相が衆院を解散したのは就任後10日、任期満了わずか一週間前だった。過去にない早いタイミング、任期切れ目前の解散も、聞いたことがない。

勝利に向けた思惑あってのことだろう。総理大臣にとって、就任直後は、国民からの人気がもっとも高い時だ。

しかし、過去の例をみると、首相にとって初陣の選挙が、その勝利に帰したかといえば、必ずしも、そうとはいえない。

首相は「岸田にお任せいただけるか、ご判断いただく」と自信を見せるが、目論見がはずれれば苦しい状況に追い込まれるだろう。

■ 大平、中曽根はあわや退陣の危機に

就任からやや時間が経過したものの、初の総選挙で、勝利ところか、手ひどい敗北を被ったケースが何度かある。 

昭和にさかのぼる。54年と58年。大平正芳、中曽根康弘の両内閣による解散だ。

▲写真 大平正芳首相とカーター米大統領(当時) 1980年05月01日 出典:Bettmann/GettyImages

大平のケースをとってみると、昭和53年の就任から10カ月、頃合いはよし、政権基盤の強化めざし衆院を解散した。

ところが、現在の消費税の原型で大平の持論、「一般消費税」導入の公約に有権者が強く反発した。

形勢不利とみて選挙戦途中で撤回したものの、時すでに遅く、投票日が雨にたたられて低投票率になる不運も重なり、自民党は248議席と過半数を割り込む大敗を喫した。

反主流の福田派などは退陣を要求、大平はこれを拒否して党内を2分する〝40日抗争〟に発展した。激しい権力闘争で手傷を負いながらも、なんとか政権に踏みとどまったものの、対立はくすぶり続け、翌55年5月に内閣不信任案が可決されてしまう。

大平は衆院解散を決断、同時期に予定されていた参院との初の同日選に打ってでたものの選挙戦のさ中に過労から急死する。

選挙は自民党が衆参いずれも大勝という劇的な展開をたどった。 

昭和57年11月に発足した中曽根内閣は、最初の選挙、58年6月の参院選を68議席で過半数を維持で無難にこなし、同年12月、衆院の解散に踏み切った。

ロッキード事件の一審判決で田中角栄元首相らが実刑判決を受け、政権運営で元首相の支持、協力に頼らざるを得なかった中曽根自身にも批判が高まったため、差し迫った事態を打開するための解散だった。

しかし、自民は30議席以上失って過半数を割り込み、現職閣僚が3人も討ち死にするという惨憺たる結果に終わった。

新自由クラブ(当時)との連立で、数合わせは何とかしたものの、中曽根は「田中氏の影響力を排除する」という屈辱的な声明を出すことを余儀なくされた。

ちなみに、この選挙で田中元首相(新潟3区)は22万票を超えるという空前の大量得票だった。 

中曽根は61年6月になって、連立解消をめざし、いったんは断念を装って世間の目をくらましながら衆院解散に打って出た。

大平に続く2回目の衆参両院同日選挙で、自民は衆院300議席と大勝、総裁任期延長によって、中曽根は5年間という長期政権を築いた。

 解散見送りと信じ込ませる奇策を弄したことから「死んだふり解散」とネーミングされた。

■ 角さんブームも功を奏さず

中曽根に一時は瀕死の打撃を与えたその田中角栄。

学歴がないにもかかわらず総理大臣にのぼりつめたことから、〝今太閤〟などともてはやされて大衆人気を誇った。

政権発足5か月の昭和47年12月、「日本列島改造論」という大風呂敷の公約、就任直後に日中国交正常化を実現した早業の実績を引っ提げ、満を持して解散、総選挙に臨んだ。

▲写真 田中角栄元首相と毛沢東中国主席(当時) 1972年9月27日 出典:Bettman/GettyImages

しかし票は思うように伸びず、自民党は解散前から26減の271議席に後退という予想外の結果に終わった。

政権発足時に高い人気を誇っても、上滑りになりやすく、支持率に頼って安易に解散に進むことのリスクを、この選挙は示した。

田中首相は2年後に〝金脈スキャンダル〟によって辞任、ロッキード事件で逮捕、起訴された。先述の実刑判決を受ける身となり、順風だった前半生とは逆の命運をたどっていく。

■ 不信任、解散時期失し敗北したケースも

内閣不信任を突き付けられ、衆院を解散したものの、総選挙で敗れ退陣したのは宮沢喜一首相だ。

宮沢は平成3年、72歳で長年待望してきた首相の座にを射止めた。当時、緊急の課題だった政治改革への宮沢の姿勢をめぐって小沢一郎らが「消極的だ」と不満を抱いていた。

業を煮やした小沢らのグループが自民党を〝脱党〟、新党を結成し、野党の不信任案に同調し、可決されてしまった。

選挙の結果、自民党は脱党組の議席を埋めるには程遠く、過半数も大きく割り込んだままだった。

あとに登場したのは、日本新党の細川護熙を首相とした非自民7党による連立政権だ。

▲写真 細川護熙氏と羽田孜氏、7月18日実施の第40回衆議院議員総選挙前 (1993年7月1日) 出典:Photo by noboru hashimoto/Corbis via Getty Images

自民党は昭和30年の結党以来、初めて政権を明け渡す結果となり、宮沢は「平成の徳川慶喜」などと揶揄された。  

解散によって政権を失った首相は独り宮沢だけではない。

平成20年に就任した麻生太郎首相は早期解散の時期を逃し、翌年、追い込まれた形で断行したが、当選者がわずか約120人という歴史的惨敗を喫し、鳩山由紀夫率いる民主党の単独政権誕生を許した。

民主党政権最後の野田佳彦内閣も消費税増税で、国民の支持を失い、離党者も相次いで、平成24年の解散、総選挙で大敗。自民党が政権復帰し、第2次安倍長期政権の幕開けとなった。 

衆議院の解散、総選挙ではなかったものの、平成元年7月の就任から1カ月余で参院選を迎えた宇野宗佑首相のケースも惨憺たるものだった。

就任早々暴露された自身の女性スキャンダル、導入が決まった消費税への反発、牛肉・オレンジの輸入自由化への農家の不安などが強い逆風となった。

自民党は改選69議席に対して当選は33人。一挙に36議席を失い、非改選を含めても過半数を大きく割り込む歴史的敗北を喫した。

宇野は投票翌日の7月24日、退陣を表明した。2カ月足らずの短命政権だった。

社会党(当時)は24議席増の46議席、自民党を大きく上回った。

土井たか子委員長が掘り起こした女性候補がマドンナ旋風を起こしたのは、この選挙だ。

不利な条件がそろいすぎていたこの選挙は例外というべきかもしれないが、自民党が参院で単独過半数を回復するまでには実に27年の長きを要した。

■ 対立陣営もひきつけた〝鳩山ブーム〟 

新しい総理大臣にとって芳しくない選挙結果ばかりみてきたが、首相の高い人気がそのまま勝利に結びついたことももちろんある。

首相就任から解散まで45日、岸田首相に次ぐ短い記録の鳩山一郎だ。

吉田茂率いる内閣総辞職をうけて昭和29年12月10日に就任、年明けの1月24日解散、投票は2月27日に行われた。

鳩山の日本民主党が解散前の124議席から64増の185議席へと大躍進。与党、自由党は一挙に68議席を失い112議席と大きく後退した。

▲写真 鳩山一郎首相(当時)1955年03月03日 出典:Bettmann/GettyImages

鳩山は71歳の高齢だったが、戦前からの長い政治キャリアを誇り、戦後は首相就任直前、GHQによって公職追放の憂き目にあった。解除、政権担当準備中に今度は卒中に倒れる不運が襲った。多くの国民が同情を寄せたのは当然だった。

その鳩山が政権に就いたとあって国民の人気はいうやがうえにもたかまり、そのまま選挙結果に反映された結果だった。

余談にわたるが、筆者の大学時代の恩師は、この選挙に三重県の選挙区で右派社会党から出馬して落選したが、この時のことをしばしば回想していた。

「〝鳩山ブーム〟といわれてね。大変な人気だった。鳩山が来たといって、ボクの運動員も見に行ってしまうんだよ。選挙そっちのけで。だれもいなくなって、これには困ったよ」ー。鳩山人気の一端がうかがえる逸話だろう。

在任は約2年と短かったが、日ソ共同宣言に署名、国交回復を実現するという功績を残した。

この宣言こそ、安倍元首相とプーチン・ロシア大統領が2018年のシンガポール会談で「平和条約交渉の基礎とする」ことで合意した、あの宣言だ。

鳩山由紀夫元首相の祖父でもある。

■ ほとんどが新首相にほろ苦い結果 

鳩山一郎のケースは例外というべきだろう。過去の選挙をさかのぼってみると、新首相にとって、ホロ苦い結果がほとんどだった。

上記の例に含めなかったが、発足当初70-80%の高支持率、5年以上の長期政権を全うした小泉純一郎氏でさえ、最初の選挙(2003年)で自民党は10議席以上失っている。

 前政権の〝負〟背負う解散、吉か凶か

発足時の世論調査支持率は悪くはないもののことさら高いとは言えず、不人気だった菅前首相への反発という不利を背負って総選挙を戦う岸田新首相にとっても、就任直後の選挙は決して楽な戦いとは言えまい。

首相は就任の記者会見で、勝敗ラインこそ「与党で過半数」と控えめな目標を示したものの、一方で、「岸田にお任せいただけるか、ご判断いただき・・・」と自らの政権の信を問う意図をうかがわせている。

首相就任の高揚感に加え、国民の支持を勝ち取って政権を本格始動させるという自信のあらわれでもあろう。

しかし、意に反して大幅議席減といった厳しい結果が出た場合、本来なら前政権の責任に帰して、やり過ごすことが可能かもしれなかったものを、独り責任を背負い込むことにならないか。

総裁選が激しかっただけに、岸田政権と距離を置く党内勢力、そして対決姿勢をむき出しにしている野党、いずれも手ぐすねひいている。

就任最初の選挙では挫折、それに近い状況に追い込まれた過去の首相の例をみると、油断はできない。岸田首相にとっては、さきの総裁選にも増して厳しい戦いになるだろう。

トップ写真:記者会見に臨む岸田文雄首相(2021年10月14日) 出典:Photo by Eugene Hoshiko – Pool/Getty Images




この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長

昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

樫山幸夫

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