陰謀説の危険 その7 オウム真理教にみる日本の反ユダヤ主義
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・日本には集団として在住しているユダヤ人がいないにも関わらず、一部では反ユダヤ主義が語られている。
・過激な実例として、オウム真理教のユダヤ攻撃が国際的にも知られ、警告の対象ともなってきた。
・日本の文化研究で知られるグッドマン教授は、日本の反ユダヤ主義やホロコースト否定は、ささいな現象として軽視することはできないと主張。
さて国際情勢はなお緊迫を高める。ロシアのウクライナ侵略は激しさを増す。中国の軍事を背景とする威嚇的な言動もエスカレートを続ける。アメリカ議会のナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問では中国の威嚇にバイデン政権もかなりたじろぐ様子をみせた。米中関係はなお緊迫を増すわけだ。
2022年夏の日本、猛暑とコロナ大感染で、厳しい日々の連続のようだ。「ようだ」と書くのは私自身がいま日本にいないからである。本来の報道活動の拠点、アメリカの首都ワシントンに戻ったのだ。日本の知人友人には申し訳ないが、こちらはコロナの感染はなお多いとはいえ、環境は快適である。
さてそんななかでわが日本ではなおウクライナ戦争をめぐって、ユダヤ陰謀説が社会のごく一部とはいえ、語られている。「プーチンを煽り、ウクライナ侵略をさせたのは実はアメリカ側のユダヤ勢力なのだ」という趣旨の陰謀説である。私がいまいるワシントンはそのユダヤ勢力の陰の跳梁を許した主舞台のはずだが、その「ユダヤの暗躍」を証するような事実は一片もみあたらない。だが太平洋を隔てた日本の一部の識者にはアメリカでのユダヤ勢力の暗躍が手にとるごとく、わかってしまうというのだ。
日本でのユダヤ陰謀説の歴史は古い。戦前では日本の政府や軍隊の中核に近いところでもユダヤ民族を危険視し、敵視する動きは存在した。これは反ユダヤ主義と呼ばれる動きだといえる。反ユダヤ主義は歴史を通じて、全世界のかなり多数の諸国に存在してきたが、それら諸国ではユダヤ人が実際に存在し、生活し、活動していた。その動きに対する一般社会の反発が反ユダヤ主義というところまで発展していったわけだ。
ところが日本にはユダヤ人というのは集団としては在住していない。日本の社会や国民の一部とはなっていない。だから一般の日本国民はユダヤ人がどんな人たちであるかも、皮膚感覚ではまったく知らないのだ。しかしユダヤ人について、きわめて否定的に断じる動きが存在する。反ユダヤ主義と呼べる動きである。だから世界各国のなかでも日本の反ユダヤ主義やユダヤ陰謀説は特殊だとされる。その対象となる当のユダヤ民族がいないのに、その民族に対する警戒や敵視の声だけが起きるからだ。
近年では日本での反ユダヤ主義の過激な実例としてオウム真理教のユダヤ攻撃が国際的にも知られ、警告の対象ともなってきた。いまからもう25年ほど前の古い話ではあるが、日本のなかのユダヤ陰謀説の極端な例としてアメリカ側の学者の警戒までを得たので、その内容を紹介しておこう。
1996年、オウム真理教がすでにテロを実行した危険なカルト集団として幹部たちが捕まり、裁判が進行する時期にアメリカの日本文化研究学者が、オウムのテロの動機に含まれたとみられる反ユダヤ主義についての研究論文を発表した。
この論文はオウム真理教メンバーが1995年3月の地下鉄サリン事件の前に、機関誌で「ユダヤが日本人を洗脳しようとしている」として「ユダヤへの宣戦布告」を唱えていた点などを取り上げていた。そして、この反ユダヤ主義宣言を「日本の過激な外国排斥志向の暴走例」と特徴づけて、その背後にある傾向を軽視しないようアメリカの識者らに訴えていた。
この学術論文は「日本の反ユダヤ主義・その歴史と現代の意味」と題されていた。発表したのは日本の文化や社会研究で知られるイリノイ大学のデービッド・グッドマン教授だった。アメリカの日本研究の学会で発表したのだ。
グッドマン教授はこのなかで、オウム真理教が機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」第6号(1995年1月25日付)で「恐怖のマニュアル」というタイトルの95ページの大特集を組み、そのすべてを「ユダヤ攻撃」にあてたことを指摘していた。「この反ユダヤ主義宣言が、2ヵ月後の地下鉄でのサリンガスによる無差別テロの動機となった可能性を無視すべきではない」と、同教授は強調した。
グッドマン教授の論文によると、オウム真理教側はこの「恐怖のマニュアル」で、ユダヤ民族を敵と断じて、「地球上の55億の市民を代表して、無数の人間を殺す『世界の影の政府』に対し、正式に宣戦を布告する。日本国民よ、めざめよ!敵の陰謀はわれわれの生活をめちゃくちゃにしてきたのだ」などと訴えていた。また「ユダヤはカンボジア、ボスニア、ルワンダなどでの大量虐殺に責任を有し、世界の人口を2000年までに30億に減らそうと意図している」とも宣言していた。
グッドマン論文は、オウム真理教が活動教本とした全6章の「恐怖のマニュアル」が各章で、すでに虚構と証明されている「シオン賢者の議定書」の「ユダヤの世界乗っ取り」説を引用し、警鐘を鳴らしていたことを反ユダヤ主義の例証として指摘していた。
同論文は「恐怖のマニュアル」が日本の政治指導者や各界著名人のうち国際派、改革派と目される人たちの具体的な名をあげ、「ユダヤ的日本人」というような表現で敵意を表明しているとし、「もし(『恐怖のマニュアル』が述べるように)オウム真理教が、ユダヤ人が今後5年に世界の人口を30億人にまで抹殺するなどと信じ、そのユダヤ人というのが国際化された日本人を意味するのだとすれば、国際的な東京都心に集まる日本人を大量に殺すことは、それなりに理屈が通ることになる」と述べて、反ユダヤ主義の恐ろしさを訴えていた。
この論文はさらにオウム真理教が1984年にスタートし、89年に宗教法人として認知された経緯をさかのぼり、「日本ではちょうどこの時期に宇野正美氏、広瀬隆氏ら『ユダヤの世界乗っ取り陰謀』を説く人物が現れていた、と報告していた。
グッドマン教授はさらにこの論文で「オウム真理教の幹部たちがこれら反ユダヤ主義を説く人物からヒントを得ていたことは『恐怖のマニュアル』にも明記されている」と述べるとともに、「日本の反ユダヤ主義やホロコースト否定をささいな現象として軽視することは危険な間違いだ」という警告を、アメリカ側の学者や言論人に向かって繰り返し表明していた。
日本のなかの反ユダヤ主義がきわめて危険な陰謀説としてアメリカ人学者によって指摘され、警告が出されていた点は、陰謀説の研究の国際的広がりとして注目される。
(つづく)
トップ写真:地下鉄サリン事件後、プラットフォームを一掃する自衛隊隊員たち(1995年10月31日)
出典:Photo by Japanese Defence Agency/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。