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.国際  投稿日:2022/9/11

この“微妙”な時期に外遊する習近平主席


澁谷司(アジア太平洋交流学会会長)

 

【まとめ】

・来年「一帯一路構想」の開始から10年の節目で、中国はカザフスタンに影響力を拡大したい思惑がある。

・習主席はウズベキスタンで開催予定の「上海協力機構首脳会議」に出席する見込み。

・党大会直前という“微妙”な時期に外遊するとは、よほど“自信”があるのか、あるいは、総書記“退任”か。

 

今年(2022年)9月5日、カザフスタン外務省は、習近平主席が同月14日にカザフを公式訪問する予定だと発表(a)した。中国側がトカエフ大統領の招待に応じたという。

カザフスタンは、中国とロシアの間に位置し、中央アジア最大の経済国である。同国は炭化水素や金属などの豊富な埋蔵量を有す。また、石油、ガス、石炭の輸出国であり、中国にとって経済的に重要な国である。

習主席は2020年1月のミャンマー訪問以来、コロナ流行期間中、海外渡航を控えていた(今年6月30日・翌7月1日の香港訪問は除く)。主席が、2年半ぶりの外遊先にカザフスタンを選んだ理由は何か。

来年「一帯一路構想」の開始から10年の節目となる。そこで、北京はカザフに影響力を拡大したいという思惑があるのかもしれない。

他方、香港紙『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』が、習主席は9月15・16日にウズベキスタンで開催予定の「上海協力機構(SCO)首脳会議」に出席するため、ウズベクを訪問する見込みだと報じた(b)。

常識的には、第20回党大会直前という“微妙”な時期に、3期目を目指す習主席が外遊するのは尋常ではない。可能性として、以下の2つが考えられる。

まず、現在、習近平政権は“盤石”なので、次期党大会に関して、習主席は何の不安もなく迎えられる。その“余裕”から外遊となった。

次に、それとは全く逆で、先月の北戴河会議では、習主席の(総書記)“退任”が決まった。だから、主席は海外訪問に踏み切っている。

ここで、かつて中国共産党のトップに君臨しながら、“微妙”な時期に外遊したため、失脚したリーダーが3人いた事実を紹介しよう。

第1は、往時、鄧小平と共に、活躍した劉少奇・国家主席(c)である。

写真)毛沢東と共に歩く劉少奇(右)。1959年10月。

出典)Photo by Express Newspapers/Getty Images

1966年春、中国の政治情勢に大きな変化があった。けれども、劉少奇と王光美夫人はパキスタン・アフガニスタン・ビルマ(現ミャンマー)招請で、3月26日から4月 19日まで3国を訪問したのである。

3月27日、劉少奇一行はパキスタンに到着した。更に、4月17日から19日にかけて、劉少奇はビルマを訪問している。しかし、劉にとって、この訪問が最後の渡航となった。

劉少奇の外遊中、中国国内では、劉の右腕であった彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らが次々と失脚していく(5月の政治局常務委員会拡大会議で彼らは「反党集団」とされ、投獄された)。

また、林彪・国防部長(兼副総理)が、毛沢東夫人、江青に依頼して開催された「部隊文芸工作座談会」(同年1月)の“紀要”が発行されている。

劉少奇不在の間、国内で毛沢東や「4人組」による“クーデター”が起きていた。その後、劉は「文革」の最中、幽閉先で非業の死を遂げている。

第2は、華国鋒・党主席である。毛沢東死後、後継者となった華国鋒は「4人組」を逮捕し、喝采を浴びた。

写真)華国鋒。1976年11月4日。

出典)Photo by Bettmann/Getty Images

1978年5月、華国鋒は、初外遊で北朝鮮を訪問した(d)。同年8月、華国鋒はルーマニアとユーゴスラビアを訪問し、翌9月、「イラン革命」前のパーレビ国王に会った。だが、帰国後、華国鋒は党内で“疎外”されている。

実は、同年春から夏にかけて、党内部では、鄧小平が権力を掌握しつつあった。一方、同年秋から(翌年春にかけて)、共産党政権を批判する「民主の壁」運動が始まっていたのである。

1978年12月、有名な「11期3中全会」(「改革・開放」を決定)が開催され、華国鋒は鄧小平に実権を完全に奪われた(1980年9月、華国鋒は首相を、翌1981年、党主席も辞任)。

第3は、1989年「天安門事件」の際、失脚した趙紫陽・総書記である。周知の通り、同年4月15日、国民的人気を博した胡耀邦・前総書記が亡くなった。それを契機に、北京の天安門広場で、大規模な民主化運動が開始されている。

写真)ニクソン大統領と握手をする趙紫陽。1984年1月16日。

出典)Photo by Bettmann/Getty Images

趙紫陽は、周囲からの忠告を聞かず、“予定通り”北朝鮮訪問を決行した。その結果、李鵬首相が党内でリーダーシップを握り、趙紫陽は帰国後、まもなく退陣する事態に陥っている。

趙紫陽不在の間、(鄧小平を含めた)李鵬ら「保守派」が民主化運動を弾圧する方向へ舵を切った。仮に、趙紫陽が北朝鮮を訪問しなければ、ひょっとして、多少情勢は変わっていたかもしれない。

このような3つの前例があるにもかかわらず、この時期、習主席が外遊するとは、よほど“自信”があるのか、あるいは、すでに自らの将来が決定済み(総書記“退任”)かのいずれかではないだろうか。

〔注〕

(a)『六度網』

習近平、第20回党大会に向けカザフスタンを訪問 複数の目的を持つ」

(2022年9月5日付)

(https://6do.news/article/6686759-29)。

(b)『中国瞭望』

「習近平が繰り広げる新たな動き、中国は本当にゼロコロナ政策を終わらせるのか?」

(2022年9月7日付)

(https://news.creaders.net/china/2022/09/07/2523042.html)。

(c)『中国新聞網』

「歴史回顧:1966年、劉少奇の最後の訪問(写真)」

(2008年11月12日付)

(https://www.chinanews.com.cn/cul/news/2008/11-12/1446944.shtml)。

(d)『中国瞭望』

「習近平の第20回党大会前の外遊に疑問の声 華国鋒、趙紫陽は北朝鮮訪問で権力失う」

(2022年9月6日付)

(https://news.creaders.net/china/2022/09/06/2522716.html)。

 

トップ写真:北京2022オリンピック競技大会にて活躍した選手を祝福する会に出る習近平。2022年4月8日。

出典:Photo by Kevin Frayer/Getty Images




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