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.社会  投稿日:2022/11/28

落選の系譜(上)熱くなりきれないワールドカップ その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・1998年ワールドカップ・フランス大会への出場を決めた「ジョホールバルの歓喜

・出場枠の関係上、直前でフランス大会の試合メンバーから三浦知良選手が外された。

・若い世代が台頭したことにより年長者のポジションが奪われるというのは、サッカー界においても避けられない現象だ。

 

今でもあの実況を忘れていない。

「ロペスがカット……中田、ドリブルで上がる……まだ持っている……左脚!」「どうだ?こぼれている……岡野!」「日本勝った!ワールドカップだ!」

1997年11月26日、世に言う「ジョホールバルの歓喜」の瞬間である。

前回述べたドーハの悲劇から4年。日本代表は98年ワールドカップ・フランス大会への出場権を賭けて、またしても最終予選にまで駒を進めていた。そして、またしても最終戦の勝利が必須という崖っぷちに立たされたのである。

この時点ですでに、次なる2002年の大会は史上初めて日本と韓国が共同で開催することが決定していた。かつては3大会先=12年後まで開催国を決めていたが、第二次世界大戦後、政治的・経済的変動があり得ることを考慮して、6年前に決めるようになっていた。

その後も諸般の事情で幾度か変更があり、今次のカタール大会開催は2010年に決定している。

その詳細についてまで述べる紙数はないが、ここで忘れるべきでないのは、1997年の時点での日本は未だ本大会出場の経験がなく、ワールドカップに出たことのない国がワールドカップ開催国となった例など、当然ながら皆無であったということだ。今度こそ、なにがなんでも予選を突破しなければ、というプレッシャーは並大抵ではなかっただろう。

しかも、この時点でもまだ「アジアの壁」は高く険しかった。予選での成績が振るわず、加茂周監督が解任され、岡田武史コーチが急遽抜擢されたのだ。

彼の手腕もまた未知数であったが、希望は見えはじめていた。Jリーグの旗揚げと前後して少年サッカーの強化プログラムが相次いで実現し、小学生の時からJリーグ入りを目指し、その夢を実現させた(高校卒業と同時にプロ契約した)若手の台頭ぶりが著しかったのである。

当時20歳の中田英寿、18歳の小野伸二をはじめ、その後も長く正ゴールキーパーの座を争うこととなる川口能活と楢崎正剛はともに21歳。いずれも、

「ワールドカップ出場を果たし、ヨーロッパの大きなリーグでプレーしてみたい」

と本気で考える若き戦士であった。

そして彼らが、冒頭で述べた「ジョホールバルの歓喜」の立役者となる。

しかし同時に、若い世代が台頭したことにより年長者のポジションが奪われるというのは、サッカー界においても避けられない現象なのであった。

翌1998年6月2日、開幕直前に代表メンバーが発表されたが、岡田監督の口から発せられた言葉が、日本中に衝撃を与えた。

「外れるのは、カズ。三浦カズ」

順を追って述べなくてはならないが、この大会では出場メンバーとして登録できるのは22名と定められていた。日本代表は、開催地フランスでの直前合宿には25名を招集していたが、言うまでもなく合宿中にけが人が出るような事態に備えてのことである。同時に合宿にまで呼ばれたメンバーの中から3名は代表を外されるということでもあった。

よく知られる通りサッカーは11名で行うスポーツで、国際ルールにより、チームの競技者11名のうち1名はゴールキーパー(以下GK)とすること、GKは他の競技者および審判員と区別のつく服装であること、そして退場その他により7名以下となった場合は没収試合となることが定められている。

岡田監督らが頭を悩ませたのは、22名の出場枠の中で、GKを2名にするか3名にするかという問題であった。とりわけ、初戦の相手がアルゼンチンと決まっていたので、防戦一方となる可能性が高く、その中でGKが負傷する事態も考えられる。

するとGKは3名必要だということになるが、そうなると今度は、攻撃的なフィールドプレイヤーを1名減らさなければならない。

この時、いわゆる攻撃陣として招集されていたのは5名。城彰二、中山雅史、呂比須(ロペス)ワグナー、岡野雅行、そしてカズ=三浦知良実はこの5名の中で、もっともスピードに恵まれていないのがカズであった

予想されるアルゼンチンの猛攻をなんとかしのいで、一瞬の隙を突くカウンターに活路を見いだすほかはない。そのような戦略であるとすれば、攻撃陣は消去法でもって、スピードに恵まれていない選手を外すのが現実的な判断となる。

ただ、そのように理解した日本人は、当時ごく少数にとどまっていた。

またしても私事にわたるが、当時まだ東京・板橋の実家で暮らしていた私は、近所の商店街で買い物客の中年女性二人が話し込んでいたのを、今も覚えている。

「カズは、功労者じゃない」「負けるよ、こんなことしてたら」

私の偏見であったなら申し訳ないが、とても日常的にサッカーを見て知見を備えているようには見えない人たちまでが、岡田監督の人選に不満を表明していた。もちろん、これだけで断定的なことを述べるのはよろしくないが、先の「日本中に衝撃を与えた」という表現も、あながち大げさではないと私は考えている。

カズの他に直前でメンバーから外されたのは、北澤豪(注・前回ドーハの悲劇についての記事中では、彼の姓が〈北沢〉と表記されていました。お詫びして訂正させていただきますー筆者)と、現役高校生として初めて代表に招集された市川大祐。

市川の場合は、帯同させて経験を積ませる、という意味合いの招集であったから、当然の成り行き(と言って悪ければ、想定の範囲内)だが、北澤はこの時のことを、

「正直、根に持ってます」

と一度ならず述懐している。

話を戻して、カズの落選については、岡田監督との人間関係に亀裂が生じていたのでは、と見る向きが、当時からあった。長年、日本代表のリーダーとして君臨していた選手だけに、監督に対しても「岡ちゃん」という呼び方をすることがあったとか、なんとか。

そんな理由で……と思われた向きもあろうが、私なりに日本サッカーについての知識を深めるべく、文献はもとより様々な記録や動画も見た結果として、上記の見方も「当たらずといえども遠からず」であろう、と考えるようになった。くだんの「ジョホールバルの歓喜」へと至る過程で、すでに予兆は見られたのである。

ワールドカップ初出場を決めたこの試合、前半を1-0で折り返したものの、後半開始直後から立て続けに2失点。ここで岡田監督は後半18分、ツートップのカズ、中山を城、呂比須と同時交代。

この時、(俺が代わるのか?)とでも言いたげな、カズの怪訝そうな表情も、日本のファンに強い印象を与えた。

しかし、岡田監督のこの策は、見事にはまる。

後半31分、中田からのクロスを城がヘディングで相手ゴールに突き刺し、同点。そして、当時のルールにより、1点入った時点で試合終了となる「ゴールデン・ゴール」方式の延長戦に突入するや、それまで出場機会のなかった岡野が投入されたのである(北澤と交代)。結果は、冒頭で述べた通りだ。

しかし問題は、イランに同点に追いつかれた直後に起きた出来事である。

中田が相手ゴール正面の位置で倒され、フリーキックを得る。この試合、フリーキックに関しては「右で蹴った方がよい場合は中田。左がよい場合は名波」と、キッカーがあらかじめ指名されていた。名波浩は「左足の魔術師」と呼ばれたほど精度の高いレフティである。

しかし、この時ボールを拾い上げてセットしたのはカズであった。これまで自分が日本サッカーを牽引してきたのだし、この試合も自分が決めてみせる。そういう強い意志の現れだったのだろう。

だが、収まらなかったのは中田であった。なにやらカズに話しかけ、最後はベンチに向かって両手を広げ、カズの行動に対する不満をあらわにした。音声までは拾えなかったが、彼の性格からして「話が違うじゃないか」くらいのことは言っただろうと衆目が一致している。

それでもなんでも、カズは譲ることはなかった。これで見事に決めていれば、さすがは……という評価になり、くだんのメンバー選考も、違った結果になったかも知れない。

しかし現実には、ボールがクロスバーのはるか上方を超えてしまい「宇宙開発」と揶揄されるほどの、まさかのミスキックであった。

もちろん、これが全てとは思われないが、指示を無視されたあげくに失態を演じられては、指揮官(=監督)の立場がどこにあるのか、という話になる。

それ以上に、この試合は3-2で日本が勝利を収めたわけだが、3得点のすべてに中田がからんでいた。今や日本代表はカズのチームではなく中田のチームだ。岡田監督がそのように判断したとして、なんの不思議もない。

そうではあるのだけれど、プロスポーツの世界は、何よりも結果が重視される。フランス大会の結果はご存知の通り、3試合0勝3敗、勝ち点0、得点1、失点4。

惨敗を喫した「岡田ジャパン」は轟々たる非難を浴び、その分「カズを起用していれば」という声が、その後も長く聞かれることとなった。

私は、この意見には与しない。その理由などについては、次回。

(つづく。その1その2その3)

トップ写真:アジアプレーオフの日本対イランの試合で3-2で勝利し、FIFAワールドカップ初出場を決めて喜ぶ日本の選手たち(1997年11月16日 マレーシア・ジョホールバルのラーキンスタジアム) 出典:Photo by Etsuo Hara/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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