忘れ得ぬドーハの悲劇(上)熱くなりきれないワールドカップ その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・1994年のワールドカップ・アメリカ合衆国大会への出場権を賭けて、日本代表はイラクと対戦、ドーハの悲劇が起こる。
・6チーム中の首位に立ち、サポーターや取材陣にも、楽観ムードが漂っていた。
・日本代表の、第一の弱点後半残り20分のガス欠と最大の弱点である経験値のなさが露呈し、ワールドカップへの出場権を逃す。
「こんな非情なことが、あるのかよ……」
民放のニュース番組で、都心のスポーツバーから中継された映像が、サポーターのそんな声を拾った。今も耳の底に残っている。
1993年10月28日、ある年代以上のサッカー好きには忘れられない「ドーハの悲劇」を目の当たりにした時の話である。私自身、しばし放心状態であった。なにしろ民放の中継スタジオまでが、30秒にわたって沈黙し、後々まで語り草となったほどだ。
翌94年に開催されたワールドカップ・アメリカ合衆国(以下、米国)大会への出場権を賭けて、日本代表はイラクと対戦。一般に地区予選は、対戦国が交互に主催する「ホーム・アンド・アウェイ」で戦われるが、この時は最終予選に限って、カタールのドーハで集中開催されていた。
最終予選に残ったのは、日本の他にサウジアラビア、イラン、韓国、北朝鮮、そしてイラク。当時は勝利チームが勝ち点2、引き分けなら双方に1ずつ、負ければゼロというルールであった。現在は勝利で勝ち点3になっているが、それ以外は変わっていない。
総当たり戦で上位2チームが本大会に出場できることになっていたが、日本が最も警戒していたのは韓国とイランであった。とりわけ韓国には、それまでアジア予選で勝ったためしがなく、この時も、
「韓国に負けてもイランに勝てれば、なんとかなる」
という算段であったと、複数の関係者が証言している。勝利チームに勝ち点2が与えられるシステムであったことはすでに述べたが、2位以内を目指すのであれば3勝=勝ち点6で十分と考えられた。これが、なんとかなる、という算段を導き出したのだろう。
しかし、現実は厳しかった。初戦でサウジアラビアを相手にスコアレス・ドロー(0-0)に終わってしまい、次のイラン戦は「なんとかなる」どころか1―2で敗戦。この時点では6カ国中最下位になっていた。
前にも触れたことがあるが、当時の日本代表は、初の外国人監督であるハンス・オフトに率いられていた。就任時の記者会見で、
「私のノルマは、日本代表をワールドカップ本大会に出場させること」
と語った際に、複数の記者が失笑したという逸話がある。日本サッカーに対する評価などその程度であり、いわゆる「アジアの壁」は超えがたいものと思われていたのだ。
しかし、オフト監督はあきらめなかった。
3連勝以外に最終予選突破の可能性がないという状況の中、ラモス瑠偉を司令塔とする新しいフォーメーションにチームの再建を託し、次なる相手の北朝鮮を3-0で粉砕してのけたのである。サッカーでは一般に、3点差がついた試合について、敵を粉砕したとかされたと表現する。
そして、前述のように過去アジア予選で勝ったためしのなかった韓国と激突するが、この試合も三浦知良の値千金のゴールで1-0。ついに6チーム中の首位に立った。
とは言え、たかだか6チームでの総当たり戦で、状況はまだまだ複雑だったのである。具体的に述べると、イラクに勝てば他会場の試合(韓国対北朝鮮、サウジアラビア対イラン)の結果にかかわらず本大会出場となるが、引き分けの場合、韓国とサウジアラビアのどちらかが引き分け以下なら2位以内(=出場決定)という状況であった。一方のイラクは、日本に勝てば他会場の結果次第で望みがつなげた。予断は許されないとは言え、かなり有利であったことは間違いない。
サポーターや取材陣にも、楽観ムードが漂っていた。これまた「根拠のない自信」とも言えないのが厄介なところで、イラクは反則の累積による出場停止で主力を欠いており、ベストメンバーを組めなかった。
一方の日本代表は、苦しいスタートであったのだが、守備の堅さは下評をはるかに超えるもので、4試合のうち3試合を無失点でしのぐなど、6チーム中の最少失点であった。得失点差の勝負に持ち込まれても有利だと考えられたのである。
そして、キックオフ。開始わずか5分で、長谷川健太のシュートがバーに当たって跳ね返ったところを、三浦知良がヘディングで押し込み、幸先よく先制する。
その後は、なんとか同点に追いつこうとするイラクの猛攻を堅守でしのぎ、1-0のまま前半が終了。この時点で他会場のスコアは「韓国0-0北朝鮮」「サウジアラビア2-1イラン」となっており、日本とサウジアラビアの勝ち抜けが有力となっていた。
ところが後半開始からほどない55分(前半45分からの累計で数える)に、同点に追いつかれてしまう。
ここで日本代表の、第一の弱点が露呈した。
その後も長く言われ続けた「後半残り20分のガス欠(スタミナ切れ)」である。目に見えて運動量が落ち、イラクのポゼッション(試合中の、いわゆるボール支配率)が高まったのだ。もともとワールドカップには最終予選から過密日程の問題があり、この試合もイラクは第4試合から中3日、日本は中2日でキックオフを迎えていた。
他会場の試合経過も、随時知らされていたが、サウジアラビアと韓国が得点を重ねている。日本はいよいよ、この試合に勝たなければ本大会出場の夢が絶たれる、という苦境に追い込まれた。
しかし69分、ラモス瑠偉からのパスを中山雅史がシュート。見事に決まる。
この時ラモス瑠偉は、二重の意味で勝利を確信したとされる。中山はオフサイドと判定されても仕方のないポジションにいたのだが、副審が旗を揚げなかったのだ。49分にはイラクのオムラム・サルマンが日本からゴールを奪ったが、この時はオフサイド判定でノーゴールとされていた。
不利な状況から勝ち越しに成功したことも大きかったが、事前に噂で聞いた通り、審判団はイラクに不利な判定をしている。ラモスはそう考えたと、複数の取材記者が証言している。
と言うのは、1990年から91年にかけて戦われた湾岸戦争の記憶が未だ生々しく、開催国である米国としては、イラク代表だけは迎え入れたくないのだと、まことしやかに言われていた。
ありそうな話だが、これで喜ぶというのもいただけない。
その話はさておき、その後はイラクのスピードも落ちて、膠着状態のまま前後半90分を終えた。イラクが日本の左サイドからコーナーキックのチャンスを得たが、この時点ですでにロスタイムに入っていたのである。この場さえ守り切れば……。
ここでイラクのフセイン=シハーフは、意表を突くショートコーナー。直接ゴール前に蹴るのではなく、短いパスを出す戦術だが、残り時間を考えれば、あり得ない選択だった。
パスを受けたムフシンが猛然とドリブルで斬り込む。三浦知良がクリアを試みるが失敗。ひりきられてしまう。そして、センタリング。
オムラム・サルマンが放ったヘディング・シュートは、キーパー松永成立の頭上を越え、ゴールに吸い込まれた。同点ゴール。
この瞬間、多くの日本選手がその場に崩れ落ちた。
数秒後に試合が終わったが、大半の選手は立ち上がることさえできず、オフト監督が声をかけて回った。この時ラモス瑠偉は、
「神様、これは一体どういうことですか」
とつぶやいたと、後に幾度となく述懐している。
彼の気持ちは痛いほど分かるが、あえて厳しい言い方をするならば、神様も困惑するばかりだろう。
先ほど、後半残り2022年11月23日分あたりから、急激に運動量が落ちる傾向を、日本代表の第一の弱点と表現したが、第二の、いや最大の弱点は、彼らの経験値のなさであったと言える。
もともと韓国に勝った時点で、選手達は舞い上がってしまい、イラク戦に勝たなければならないということを忘れたかのような空気で、オフト監督が厳しくいさめたほどであった。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」
これは野村克也氏の言葉で、野球について言われたことだが、サッカーにも同じ事が言えたのである。
次回この議論を、申し越し掘り下げてみたい。
(つづく)
トップ写真:カタールのドーハで開催されたワールドカップ予選にてハンス・オフト監督が選手の桂谷哲二を慰める 出典:Photo by Kaz Photography/Getty Images
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。