四半世紀前の忘れ得ぬ思い「在ペルー日本大使公邸占拠事件」
柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)
【まとめ】
・「在ペルー日本大使公邸占拠事件」を最後まで取材した。
・テロリストが「処刑された現場を見た」という話があった。
・「死んだ人がいるのに、良かった」とはどうしても思えなかった。
今からちょうど26年前のゴールデンウィークに、テレビの仕事仲間数人と、ペルーのマチュピチュを旅した。仕事仲間との旅ではあったが、完全に観光旅行であった。
それまで数ヶ月の間、我々はペルーの首都、リマで事件の取材に当たっていた。
その事件が「解決」したので、皆で労をねぎらい合い、休暇を取って一緒に出かけたというわけだ。
ペルーは日本からわざわざ出かけるとかなり遠い場所。
この機会を逃す手はなかった。
マチュピチュはずっと訪問してみたい場所であった。
到着して高台から遺跡群を望む。
写真で見たことのある、有名な風景が眼下に広がった。ずっと来たかった念願の場所。ついに来たか・・・・
そういう感動に包まれるはずであった。
楽しい気分で旅行を楽しむつもりだった。
だが、仕事は終わったが、終わった仕事の後味の悪さが、自分の心に、自身が感じるより大きく、ずっしりと影を落としていた。
1996年12月。
リマの高級住宅街にある、日本大使の公邸で行われていた天皇陛下の誕生日を祝うパーティーにテロリスト集団が乱入、日本人関係者、加えて現地のゲストを含む600人以上を人質にして立てこもるという前代未聞の事件が起きた。いわゆる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」である。事件の発生当初を除いて、終結するまでの3ヶ月以上、私は現場にいた。
出典)Photo by Greg Smith/CORBIS/Corbis via Getty Images
事件のことをご存じない方もいるだろう。
気がつけば、事件からもう四半世紀が過ぎているのだ。
事件の詳細は省くが、公邸占拠から4ヶ月後の1997年4月22日に、特殊部隊が突入、テロリスト14人を全員殺害、という形で、事件は幕を下ろした。だが、72人の人質のうち一人が死亡、ほかは重傷者もいたものの全員救出された。日本人は全員、奇跡とも言える救出をされたことで、当時の日本の世論は歓喜に湧いた。
当時、30代前半だった私は、意気軒昂。
この歴史的な事件を、結末までこの目で見て、世界に伝える、という使命感で常に気持ちが高揚していた。だが事件は、自分の想像とは違った形で終わった。テロリストが引き起こした事件なのだから、こういう結末も当然、あり得たのだが、想像力が欠けていたのか、現実に迎えた事件の終わりは、自分の理性では消化し難いものであった。
生まれて初めて生身の「殺された人」というのを見た。
「殺された人」は死後硬直で固まっており、硬直で直角になった腕をなだめながら、係員が「死体袋」に死体を苦労して収めていた。
私はその場面を、数百メートル離れた建物の屋上から超望遠レンズでビデオカメラに収録していた。
撮影しながら、説明し難い、吐き気に近い、そんな感覚があった。「現場にいながら、なまっちょろい。」そんな風に言われそうだが、それは、死体を見た生理的な反応から来るものではなく、正確に、私の感情から来るものであった。
「殺された人」は私が「知っていた人」たちだった。昨日まで、生身の声を上げて、生きていた人たちであった。その人達がレンズの向こうで殺害された死体となって転がってたのだった。
写真)テロリストを狙うビルの屋上に配置された狙撃手 2016年12月 ペルー・リマ
出典)Photo by Jacques Langevin/Sygma/Sygma via Getty Images
公邸占拠は127日間にわたった。
事件が長期化するうちに、テロリストたちの素性が徐々に明らかになって来た。
公邸を占拠していたMRTA(Movimiento Revolucionario Túpac Amaru:トゥパク・アマル革命運動)と言われるテロ組織のリーダー、ネストル・セルパ以下、数人の幹部以外のメンバー10人余りは、10代から20代の若者たちで、田舎や、地方から連れてこられたものばかりだった。
あるものは地方で家族を人質に取られ「グループのメンバーになれば、この仕事が終わったら大金が手に入って、家族全員を楽にさせてあげることができる」と懐柔された。あるものは、小額の現金を渡され、メンバーになった。背景には貧困があった。皮肉だが「MRTA」が標榜するイデオロギーも、つまるところ「貧困による格差をなくす」ところにあり、ペルーに社会主義国家を設立することにあった。
テロリストのメンバーが毎朝7時前後に、拡声器で公邸の外に向かって代わる代わるする「アジ演説」が現場朝の日課だった。ラジオ体操のごとく、である。
全員で歌う「革命歌」に続いて行われるその演説は、私を含む、事件発生後に現場に押し寄せた、数百人とも言われるメディア関係者の「モーニングコール」のようなものだった。
毎日のことなので、「アジ演説」の声を聞けば、メンバーの誰が演説しているかわかった。時々「記念日」と称して空へ向けて自動小銃の乱射や、敷地内で威嚇の手榴弾の爆発音が聞こえる以外は、メディア関係者の現場の空気は、100日を超える辺りから、テロ現場にいるとは思えないくらい緩みきっていた。
それは公邸の中から拡声器で演説するメンバーの声の緊張感のなさにも表れていた。「あ、今日は誰々の演説だな」「おお、今日は女の子の〇〇が頑張ってるな」と、演説の内容は差し置いて、メディア関係者の間では朝の余興のごとく、親しみを持って聞いているものも多かった。
だが、「テロ組織への毅然とした対応」を公約に掲げた当時のフジモリ大統領はテロ組織との交渉を一切拒絶。127日目に、ついに武力突入を強行して、公邸を占拠していた彼ら14人全員は、あっという間に殺害されてしまった。
テロリストのメンバーのほとんどは、銃器の扱いもおぼつかない、戦闘訓練もほとんどされていない10代の女子を含む「素人」だった。特殊部隊が急襲する中、抵抗することもなく、捕らえられたメンバーも少なからずいた。
救出された日本人の人質の一人が、事件後にした証言で忘れられないものがある。
「(私が)隊員に守られて避難している最中に、縛られて連れて来られたグループメンバーを見た。隊員がその場で何かをするような素振りを見せたので、どうするつもりだ、と叫んだら「見るな、進め!」と」
事件の模様は公式には、テロリストは全員、戦闘で死んだことになっているが「処刑された現場を見た」という話が他にもあった。
他社のメディア関係者の話では、現場で洗濯物として干してあった女性メンバーの下着に、戦闘で弾丸の穴が開いており、それを「戦利品」として持ち帰り、誇らしげに見せびらかした特殊部隊員もいたと聞いた時には開いた口が塞がらなかった。
翌日。
昨日までのことだけが現実で、今日は、しらじらしい世界の、夢の中にいるような気分だった。
「昨日まで」「さっきまで」声が聞こえていた生きていた全員の声は聞こえなくなった。
リマは秋を迎えつつあったが、その日は残暑のような、かいた脂汗が気持ち悪く冷やされる空気で、空は灰色だった。昨日までの緊張感が全くなくなってしまった現場は「虚無」が席巻する世界だと感じた。
自分は装甲車に挟まれ、その時アバラにヒビが入ったらしかった。
そして、その痛みが、昨日までの現実と、虚無の今日はつながっている、という証拠のようにも思えた。
公邸周辺の現場で他社のカメラマン、記者に会う。
「いやー、やっと終わったね」「事件が解決して良かった」
だれもが異口同音にしてそういうのが合言葉のようだった。
笑顔をみせて、誰もが事件の終結を讃えなければいけないようなそんな空気があった。
写真)日本大使公邸前
事件終結後の事件現場の公邸前で26年前。現場では写真を撮りまくったが、手元に残っているのはこの1枚だけ。向けられたカメラには笑顔で応じていた。
筆者提供)
だが、自分の中では「死んだ人がいるのに、良かった」とはどうしても思えなかった。
それから20数年。
数多く映像の仕事に携わってきたが「人の命」をメシの種にする取材も多くあった。
代表的な事件のうち、2001年に起きた、アメリカ同時多発テロ事件は、その最たるものだろう。
3000人近い人が現場で亡くなったこの事件、事件発生からやはり3ヶ月は1日も休むことなく取材に駆け回ったが「また人の命でメシを食っている」自分がいると感じていた。
たびたび起きる、乱射事件。他にも事件・事故の現場にも数え切れないくらい赴いた。そのたびに「また人の命でメシを食ってる自分」に語りかける言葉を、今でも見つけられずにいる。
ゴールデン・ウィークが近くなると、ペルー事件を思い出す。
そして、消化できない思いは、ずっと続いている。
還暦を過ぎたせいか、最近はそんなことをよく考える。
トップ写真:在ペルー日本大使公邸占拠事件の人質の一部が開放され、日本大使館へ送られる様子 1996年12月22日 ペルー・リマ
出典:Photo by Jacques Langevin/Sygma/Sygma via Getty Images