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.政治  投稿日:2023/7/12

「高岡発ニッポン再興」 その90 50年前から準備・・・北陸新幹線開業に向け


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・金沢市、50年以上前から新幹線開業に備えていた。

・金沢の顔、香林坊への動線及び金沢駅近辺を整備した。

・古くからのモノを大切にしながら、現代風にどうアレンジするのか考えていきたい。

 

金沢市の前市長の山野之義さんの話で最も心に残ったのは、新幹線開業に備えた行政の動きでした。50年以上前から、将来を見据えていたのです。NHKの「プロジェクトX」のようなストーリーで、金沢市の繁栄はまさに、歴史が積み重なった結果だったのです。

2015年3月に北陸新幹線が開業しましたが、もともとのきっかけは、1965年9月です。この年は、東海道新幹線が開業した翌年です。金沢市で「1日内閣」が開かれました。富山県から出席した、砺波商工会議所会頭の岩川毅が当時の総理、佐藤栄作「北回り新幹線」を要望したのです。

2年後の67年12月、「北回り新幹線」の建設促進同盟会が結成され、北陸3県が中心となり、建設を求める運動が始まりました。

山野さんはこうした歴史を振り返りながら、「当時の金沢市長は立派だな」とつぶやきました。当時の市長、市職員、経済界の中では、いずれ新幹線がやってくるので、それに向けて整備しようということになったのです。その際、やはり大事なのは、金沢の顔ともいえる片町香林坊への動線。しかし、金沢は、戦災にあっていないので、その動線は、道が狭かったり、建物が少々錯綜して建っていたりしています。

その動線及び金沢駅近辺をしっかりと整備していこうということになり、区画整理の手法を中心とした再開発に取り組みました。しかし、簡単ではありません。市は国や県の協力をいただきながら、地元の方と丁寧に話し合いながら進めました。区画整理は、個人の財産に手をつけるので、何度も足を運びました。補償金も発生するので、1年や2年の予算ではできません。

山野さんは「歴代の市長や職員は、大きな絵を描きながら、丁寧に少しずつ、地権者の皆さまと話し合いを続けていきました」と振り返りました。

その後、新幹線開業は2015年春と決まりました。

山野さんは新幹線開業時期が決まったのはポイントだったとし、こう続けます。

「それまで40数年間、我々の先輩たちが準備してきました。『2015年春に間に合わせるぞ』となりました。その結果、見事に、本当にぴったりのタイミングで新幹線に間に合ったのです。開業時、たまたま私が市長だっただけです。すべては先輩方のおかげです。」

北陸新幹線は構想から50年で開通したのですが、金沢市では、その間、ずっと準備し、ちょうど間に合ったのです。

私は山野さんの講演を聞いた後、改めて金沢市を訪れました。目当ては、金沢城近くの「しいのき緑地」の視察です。ここは、県庁跡地でした。1993年当時の中西陽一石川県知事は、老朽化のため移転を表明しました。元市長の山出保さんの著作「金沢を歩く」によれば、地元では、空洞化を招くとして反対意見が出ました。

その後NHK金沢放送局から、この地に移転したいという申し出がありました。この移設には高さ50メートルのアンテナも伴います。市の景観条例では、15メートルまでとなっています。商店街からは歓迎する声もありましたが、金沢市景観審議会では、「基準を超えるアンテナの設置は認められない」と判断したのです。山出さんも市長として、審議会の判断は妥当との結論を出しました。

山出さんは「何もつくらないことこそ見識」と主張し、中心部に金沢城の石垣が見える緑地ができたのです。私自身、実際に行ってみて、この広大な緑地に感銘しました。石垣が見えると、歴史を感じ、ワクワクしますね。「歴史と文化」を守るという山出さんの判断は正しかったと思います。やはり、まちづくりは、市長の判断次第ですね。

さて、高岡のまちづくりを今後、どうすべきなのか。金沢市には、ヒントはたくさんありました。金沢同様に「歴史と文化」が最大の特色です。金沢に負けないコンテンツを持っています。こうした古くからのモノを大切にしながら、現代風にどうアレンジするのか。今後考えていきたいですね。

 

写真)「つなぐ 100年企業5代目社長の葛藤と挑戦」能作千春著

幻冬舎 能作

トップ写真:城の石垣が見える、しいのき緑地(執筆者提供)








この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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