「高岡発ニッポン再興」その94 番外編 戦争を考える① 広島原爆投下の衝撃度
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・広島への原爆、当初日本政府は原爆の認識がなかった。
・日本政府は、ポツダム宣言受諾に踏み切れなかった。
・書記官長の迫水久常、科学者を広島で調査させ原爆と判明。
私は政治家として歴史を学ぶことは大事だと、思っています。特に8月は終戦のことを考える時期なのです。当時の政治家はどう判断したのか。「ポツダム宣言」をどのように受け入れたのか。それはその後の日本に大きな影響を及ぼしています。歴史に詳しい作家、半藤一利さんは、私にポツダム宣言を受け入れなかったら、本土決戦となり、日本は壊滅的になったと指摘しています。高岡も他人事ではありません。さて、半藤さんの著作など踏まえて、当時を改めて振り返ります。
8月6日アメリカ軍は広島へ原爆を投下しました。日本政府は当初、原爆だという認識はなかったのです。これまでに見られないぐらい新型の爆弾とみていました。
ところが一変したのは、翌7日午前3時、同盟通信外報部長の長谷川才次が書記官長の迫水久常に電話したのです。書記官長というのは、今でいう官房長官です。
長谷川がサンフランシスコ放送を傍受したところ、アメリカが開発した原爆の第一号が広島に投下されたというのです。
迫水は驚きました。今回の戦争で、いずれかの国が原爆を実用化できれば、その国が戦争を勝利すると考えていたからです。日本の専門家の間でも原爆の原理については研究していましたが、いかに、アメリカでも、数年のうちに完成できないだろうと考えられました。
しかし、大統領のトルーマンは、巨額の資金を投じて、原爆開発に全力を投入していたのです。原爆投下を明らかにした声明の中で、トルーマンは日本に対し、原爆が実用化されたのだから、ポツダム宣言の受け入れを呼びかけました。
翌7日の閣議では、この爆弾について、討議しました。閣僚の間では、このような爆弾が投下された以上、日本政府はポツダム宣言を受け入れるべきだという意見も飛び出しました。しかし、戦争続行を訴えていた、陸軍大臣の阿南惟幾は受け入れ反対の姿勢を鮮明にしました。
迫水は7日に、原子爆弾の真偽をたしかめるべく陸海軍の科学者を広島に派遣しました。仁科博士は8日に調査を終え、夕刻に書記官長室を訪れました。
「まさに原子爆弾に相違ありません。私ども科学者が至らなかったことは、まことに国家に対して申しわけのないことです」と、頭を下げた。
この仁科博士の調査結果を聞いた、総理大臣の鈴木貫太郎は、迫水に命じたのです。
「いよいよ時期がきたと思うから、明日9日、最高戦争指導会議と、閣議を開いて正式に終戦のことを討議するよう準備してほしい」。
昭和天皇も侍従に対し、広島の惨状を踏まえれば、これ以上勝ち目のない戦争を続けるのは困難だと語ったといいます。
迫水は、鈴木総理の指令を受けて、9日午前2時ごろまで最高戦争指導会議と閣議の準備に追われた。
極度の緊張と疲労に襲われた迫水。やっと眠りについた午前3時ごろ、1本の電話で飛び起きた。相手は、またしても、同盟通信外報部長の長谷川才次でした。
その内容は眠気を吹き飛ばすものでした。いったい何が起きたのでしょうか。
(その95に続く)
トップ写真:原爆投下後の広島 1945年
出典:Photo by Keystone/Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。