「象徴天皇制」歴史から学ぶ 「高岡発ニッポン再興」その26
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・終戦後、連合国の中には天皇を退位させるべきという声が渦巻いていた。
・最終的には、日本国憲法に「象徴天皇制」が盛り込まれ、天皇については、処分の対象から外された。
・「天皇は空に輝く象徴みたいなものだ」という高僧山本玄峰の言葉が、象徴天皇制の起源であると言われている。
1945年8月15日正午、玉音放送が流され、日本は終戦を迎えました。終戦に最後まで反対していたのは、陸軍大臣の阿南惟幾です。阿南はこの玉音放送を聞くこともなく、午前5時に自決しました。
この阿南は自決する直前、総理大臣の鈴木貫太郎と面談しました。これまで貫太郎に迷惑をかけたと述べた上で、「私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあった」と説明しました。国体、つまり天皇陛下を中心とした国家の在り方を維持するよう求めたのです。貫太郎もまた同意しました。
しかし、天皇陛下はいったいどうなるのか。日本の総理大臣がどのように主張しても、思い通りにはなりません。連合国の中には「退位させるべき」という声が渦巻いていました。アメリカの世論も天皇には厳しかったのです。ギャラップ社の調査では、昭和天皇について「殺せ、拷問し餓死させよ」が36%、処罰または流刑が24%などと、80%近くが処罰や裁判を要求していました。
写真)長和殿のベランダに立ち、新年を祝う国民に向かって手を振る昭和天皇 1984年1月2日
最終的には、日本国憲法に「象徴天皇制」が盛り込まれ、天皇については、処分の対象から外されました。象徴天皇制の起源については諸説ありますが、前回もお伝えした、高僧、山本玄峰が深く関与したとも伝えられている。山本玄峰は、高岡にある国泰寺の末寺、全生庵を拠点として、終戦の際には大きな影響力を持っていました。
玄峰はどのようにかかわったのか。幣原内閣の内閣書記官長だった楢橋渡が、書き残した文章から浮かび上がります。内閣書記官長は今でいえば、官房長官のポストです。
楢橋は昭和21年正月ごろ、GHQ民政局のホイットニー局長、ケージス大佐、ハッセー大佐らと天皇についてどのような地位にするか相談しました。場所は、人目につかないよう大磯にある明治の元勲、伊藤博文の別荘、滄浪閣です。
アメリカ側は、天皇を退位させた形の憲法を要求、こんな主張を展開しました。
―日本人は天皇を神さまだと思い、『天皇陛下万歳』と叫んで平気で死んでいく。八紘一宇といいながら、世界を侵略する。それらの原因はすべて天皇にある。天皇を退位させて民主主義を実現しないと、日本は平和国家として世界から受け入れられる態勢が整わない。極東委員会の中で、ソ連などの強硬派から、天皇退位を求める声が出ている―。
それに対し、楢橋は強硬に反対論を唱えました。
「天皇退位になれば、日本国民は反乱を起こすか、マッカーサーに反抗するだろう。そうすれば、進駐軍が失敗したということになり、ソ連が北海道に進駐するだろう。日本は二つに分割されるだろう。そしたらマッカーサーも失敗したことになる」。
楢橋は持論を展開しながら、一人の男の顔を頭に浮かべていました。それは、山本玄峰です。そこでGHQに対し、「天皇については4、5日待ってくれませんか」とお願いした。
家に戻り、さっそく、三島の龍沢寺に電話しました。玄峰は新潟県の長岡の温泉に旅行していました。楢橋はすぐに自動車で長岡に向かいました。
障子を開けると、玄峰が炬燵に一升の徳利を置いて、座っていました。楢橋が部屋に入ろうとすると、言葉が返ってきました。
「天皇の問題で来たのだね」。そして語り始めました。
「私は天皇が下手に政治や政権について興味を持ったら、政権内で内部抗争が絶えなくなると思う。天皇の詔勅を受けているといって天皇の権威を利用して派閥抗争するだろう」。
その上で、こんな考え方を明らかにしたのです。
「天皇は政治から超然として空に輝く太陽のような存在になるべきだ。政治家はその天皇の御心を受けて慎みながら政治をすべきだ。そうすれば、天皇がいても、立派な民主主義国家になるのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだ」。
楢橋はこの言葉に感動し、再びGHQに出向きました。
「天皇は民族の象徴、主権は在民。天皇は一切、政治に関与しない。天皇は日本民族全体を象徴しているので、政治家は天皇のお気持ちを受けているという形態がいい」。
するとGHQ側は「それはいいアイデアだ」。総司令部が作った新憲法に「天皇は民族の象徴」という文句が生まれたきっかけになったといいます。阿南がこだわった「国体」は維持されたのです。
私は歴史を学べば学ぶほど、先人に尊敬の念を抱きます。70年余り前の人々の努力があったからこそ、今のニッポンがあるのです。
さて私も、政治家です。日々の行動はそのまま未来の人々に影響を与えているのです。地域のこと、高岡市、さらには、日本全体を見据えて、行動に移していきたいと思っています。未来の人々に恥じない仕事をしなければなりません。
写真:終戦を知らせる玉音放送に頭を下げながら聞き入る、グアムの捕虜収容所に収容された日本軍捕虜たち。1945年8月15日
出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。