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.政治  投稿日:2023/10/9

土光敏夫に学ぶ「利他の心」② 経団連会長の出張も日帰り


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・「メザシの土光さん」、放送実現のウラ側には秘書居林氏の存在。

・この番組がなければ三公社民営化の議論は頓挫していた可能性も。

・経団連会長としての地方出張も日帰りが原則だった。

 

「メザシの土光さん」と呼ばれるきっかけとなったNHKの放送は、なぜ実現したでしょうか。「策士」がいました。居林次雄です。経団連で土光の秘書を務めていましたが、著書「財界総理側近録」の中で自ら説得した内実を明らかにしています。

「会長、どうして行革に対して、政治家や官僚が乗ってこないか、ご存知ですか」と。

「いや、知らんな」と土光。そこで居林は続けた。「それは、財界人が山海の珍味を食べ、夜な夜な新橋や赤坂などの料亭で栄耀栄華の限りを尽くしていながら、政府には質素にしろと迫っている。そんな行革に乗れる訳がないと、そっぽを向いているのです」と言い、土光の質素な生活を国民にみてもらうことで、行革が成功すると主張したのです。

当初渋っていた土光も、「それならやむを得ない」と了解したというのです。居林はNHK番組で、こうした根っからの清貧さを国民にアピールしようと考えたのです。

「メザシの土光さん」は国民に絶大な人気を博し、行革のシンボルとなったのです。この番組がなければ、「メザシの土光さん」というニックネームが広がらず、三公社の民営化の議論は頓挫していた可能性があります。JR、NTT、JTといった優良企業は誕生しなかったかもしれないのです。

「メザシの土光さん」。そのイメージで行財政改革が成功したのですが、決して表面的な演出ではありません。実際、土光の宴会嫌いは徹底していたのです。ムダなお金は使わず、合理主義と信念に基づいて直言し。そのため、発言に説得力があったのです。

土光は経団連会長に就任した時、一切夜の宴会をやらないという方針を打ち出しました。

私は、経団連時代に秘書を務めた居林に話を聞きました。居林は、「大臣や大手企業の社長とか皆宴会をやって、そこで政策を議論する。大事なことは、宴会で話そうというのが常識だったと思いますが、土光さんはそれをすべて拒否した」と振り返りました。

土光は、話し合いが必要ならば、昼に会議を開こうと提案したというのです。

土光が就任してちょうどちょうど1年後の1975年5月。英国のエリザベス女王が国賓として来日しました。天皇陛下がエリザベス女王歓迎の宮中晩餐会を開くことになったのです。出席者は勲一等などの勲章をつけてずらっと並ぶ晩餐会です。土光に菊の御紋章入りのご招待状が届きました。

大変栄誉ある宴会だけに、居林はさすがの土光もこれは受けるだろうと読み、「出席なさいますか」と尋ねました。そっけない返事でした。「老齢の故をもって断ってもらいたい」

居林は驚きながら、宮内庁長官に「老齢の故をもって」と断ったが、それは、大きなインパクトがあったのです。

それから、閣僚や大企業のトップからの夜の宴会の誘いがあっても、秘書としては断りやすくなったといいます。「天皇陛下の宮中でのエリザベス女王歓迎の晩餐会も断っているので…」と言うと、相手はそれ以上、強く誘わなくなったのです。

経団連会長として、地方行脚する際も、出張は日帰りが原則でした。

「朝一番の飛行機で飛んで行って、全部用事を済ませると、最後の飛行機で帰る。地方の知事から大会社の社長まで、芸者を挙げて大宴会するのが当たり前の時代だったのですが、土光さんはそれを嫌いましたね。不合理なことはやめろと言っていました」。

率先垂範の姿勢でした。行財政改革で、「各論反対」の声を封じ込めることができたのも、こうした清貧な性格によるものだと思います。

トップ写真:経団連ビル(イメージ)出典:Photo by JHVEPhoto/Getty Images




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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