「高岡発ニッポン再興」その113 政治の原点はベルリンの壁崩壊
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・1989年11月9日、東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が崩れた。
・1989年8月に念願の時事通信の内定が出た。
・1990年11月、時事通信の1年後輩の内定者向けに原稿を書いた。
今、高岡市議会議員として活動させていただいていますが、地元で高校を卒業して上京しました。その後、さまざまな体験をさせていただきました。それが今の自分の考え方や行動のベースになっています。大学で政治を勉強させていただきましたが、就職して以降、常に政治と向き合ってきました。
政治が変わると、痛感したのは1989年11月9日です。この日、東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が崩れたのです。東西冷戦の終結を象徴した日なのです。当時はバブル真っ盛りです。私は、日本国内の浮かれた雰囲気に嫌気がさしていました。ディスコなどが全盛期だったのですが、背を向けていました。
一方、世界は風雲急を告げていました。東ドイツ政府は、市民がベルリンの壁を越えて自由に通行することを認めたのです。東ドイツの市民の自由を求める声に、政府は抵抗できなかったのです。その後、ハンマーで壁を叩き壊そうとする市民の映像などが流れていました。市民が泣いて喜ぶ様子などもテレビで映し出されました。
私は1989年8月に念願の時事通信の内定が出ていました。通信社に入るのだから、特派員として活躍したい。そんな思いで、英語の勉強もかねて、ロンドンにいました。そして、歴史的な現場に出向いたのです。その時の1990年11月の原稿、時事通信の1年後輩の内定者向けに書きました。それが私の政治の原点です。
11月9日は何の日か。その日ベルリンの壁が崩壊した。それからちょうど1年。僕にはちょっとした感慨がある。
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「彼らは4時からバツラフ広場で開かれるデモに参加するため、地方から出てきた客です。私も仕事を抜け出して参加する予定です」。
チェコスロバキアの首都、プラハのホテルでフロントマンが興奮しながら言った。フロントの前にはメッセージの書かれた旗を持った客でごった返していた。彼らは広場に行く直前のようであった。
バツラフ広場はホテルから歩いて15分ほどのところにあった。そこは正確に言えば広場ではない。国立博物館を正面にした、7,800メートルほどのにぎやかな大通りである。僕がそこに着いたのは、3時40分ぐらいだった。すでに広場は人で埋め尽くされていた。思い思いの標語が旗に書かれていた。もちろん何が抱えているのか僕に読めるはずはない。
日が暮れるにしたがって人はどんどん増えていった。花金の新宿どころではない、ほとんど身動きができないくらいだった。彼ら何をしているのかといえば、演説を聞いているのだ。演説者は次々に交替していた。大体が若者。しかし、それに耳を澄ませているデモ群衆は若者だけではない。老人から子供までの「民衆」そのものだった。
(つづく)
トップ写真:ベルリンの壁崩壊 1989年11月9日 ドイツ・ベルリン
出典:THIERRY ORBAN/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。