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.社会  投稿日:2024/2/8

なぜ逃げ切りを許したのか(上)失敗から学ぶことは多い その1


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・東アジア反日武装戦線の桐島聡容疑者の身柄が確保され、50年の潜伏生活に終止符が打たれた。

・東アジア反日武装戦線とは、1974年8月から75年5月にかけて、連続企業爆破事件を引き起こした組織である。

・海外にいるのではないかと見る向きが多かったが、実際は神奈川県藤沢市の建築会社に40年近く住み込みで働いていた。

 

潜伏生活50年。

正確には1975年5月19日に逃亡し、指名手配されていたので、49年足らずだが、1月25日午後、

「東アジア反日武装戦線の桐島聡容疑者の身柄を確保」

とのニュース速報が流れた。

今度は彼か、というのが第一報に接した時に私が感じたことであった。

2017年、やはり46年間にわたって逃亡生活を続けていた、中核派の大坂正明被告が逮捕されたことを思い出したのである。この人物の逮捕容疑その他については、後で触れる。

桐島聡容疑者に話を戻すと、当初は「……と名乗る男」という報じ方をされていた。

昨年初めから体調を崩して、鎌倉市内の病院に通院していたが、当人に告知されたかどうかまでは不明ながら、すでに「末期の胃ガン」と診断されていたという。今年に入ってから入院していたのだが、25日になって、

「自分は桐島聡。今まで偽名で生活していたが、最期は本名で迎えたい」

などと病院関係者に打ち明けたそうだ。

一部報道によると、この病院関係者とは警察OBで、この人物から所轄署、県警公安部、そして警視庁へと連絡がつながり、冒頭で述べた「身柄確保」に至ったもの。たしかにありそうな話だと思えた。

一般にはあまり知られていない事実だが、大きな病院には警察OBが嘱託などの立場で再就職している例が意外と多い。事件性を疑われる患者が搬送されてきたような際に、警察との連携を円滑にするためであると聞く。

今次の場合も、入院患者が保険証も免許証も所持していなかったということなので、その警察OBの方から、それとなく身元を尋ねたという経緯であったのかも知れない。あくまで私の推測であるが。

また、警視庁公安部に「身柄を確保」された段階では、すでに何本ものチューブがつながれた重篤な状態で、逮捕・勾留の肉体的負担には耐えられそうもないと判断され、任意での事情聴取となった。

その聴取に対し、事件の具体的経緯や自身の家族関係など、本人しか知り得ない内容の供述が得られたため、捜査員も「本人の可能性がきわめて高い」と判断し、冒頭のニュース速報となったわけだ。

桐島容疑者には逮捕歴がなく、警察に指紋などのデータもなかったため、親族からDNAの提出を受け、照合を急ぐこととなったが、29日朝、当人は他界。2月になってから、前出の鑑定により「親族関係に矛盾はない=まず間違いなく本人である」と確認されたため、5日には家宅捜索が行われ、今後は被疑者死亡のまま書類送検されることになる見込みだ。

すでに、大手メディアによって連日報じられたことだが、東アジア反日武装戦線というのは、1974年8月から75年5月にかけて、世に言う連続企業爆破事件を引き起こした組織である。

発端となったのは1974年8月30日に、東京・丸の内の三菱重工ビル(現・丸の内2丁目ビル)の玄関付近に仕掛けられた時限爆弾による事件で、死者8人、重軽傷者376人という大惨事となった。

彼ら東アジア反日武装戦線は、その名の通り、日本国家とゼネコンなど大企業がアジア諸国を侵略・搾取しているとの理論を掲げ、爆弾闘争を展開したもので、総勢10名ほどながら「狼」「大地の牙」「さそり」の3班に分かれて活動しており、桐島聡容疑者は「さそり」の一員であった。

当時、過激派と称される新左翼諸派がまだまだ勢力を保っていたが、彼ら東アジア反日武装戦線の過激さは突出したものであった。なにしろ逮捕された場合は黙秘ではなく服毒自殺することまで申し合わせていたほどで、実際にメンバーの中に薬剤師がおり、職場から盗み出してきた青酸カリを持ち歩いていた。ただ、本当に死ねたのは斉藤和ただ一人である。

今さらながらだが、事件当初この人物の姓名は「さいとう・やわら」と報じられていたが、戸籍名は「のどか」であるらしい。

桐島聡容疑者は事件当時、明治学院大学法学部の4年生で、前述のように逮捕歴はなく、警察もノーマークだったと伝えられるが、1975年5月19日に主要メンバー7人が一斉検挙され、その中の一人が彼の部屋の鍵を所持していたことから、捜査線上に浮上した。公安当局は、組織の一端は早い段階から把握していたが、尾行や張り込みを続け、ほぼ全容をつかんだ、と判断した時点で一斉検挙に踏み切ったとされている。

おそらくはニュース速報で、仲間が一網打尽にされたことを知った桐島は、翌20日、渋谷区内の銀行で現金をおろしたまま消息を絶つ。

彼の顔写真を印刷した指名手配のポスターは700万枚も印刷され、交番など全国至る所に張り出されていたが、ご案内の通り、以降49年間、その行方はつかめなかった。

彼は1974~75年に起きた連続企業爆破事件の一つに関与したとして、爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されていたが、1977年に日本赤軍が引き起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で、拘留中だった共犯者が「超法規的措置」によって解放され、そのまま海外に逃亡してしまったため、公訴時効は一時停止していた。しかし、その共犯者の一人が後に身柄を拘束され、判決が確定したことから、あらためて2029年には公訴時効になる予定であったという。

いずれにせよ、東アジア反日武装戦線の複数のメンバーが、日本赤軍に合流したことから、桐島聡容疑者も、おそらく海外にいるのではないか、と見る向きが多かった。公安の元捜査員も報道番組の中でそう証言している。

しかし事実は、すでに大きく報じられた通りで、神奈川県藤沢市の建築会社に40年近く住み込みで働いていたのだとか。

「内田洋(うちだ・ひろし)」という偽名を用い、行きつけの飲食店もあって、従業員や常連客からは「うっちー」と呼ばれていたそうだ。この店ではライブが行われることもあり、口ひげを生やした当人が、最前列で踊りながら、バンドに

「いいよー」

などと合いの手を入れ、盛り上げている動画まで公開された。

彼の手配容疑や「潜伏生活」について、肯定できる要素はなにひとつないのだが、

(今時こういうことが、できるものなのだな)

などと、妙な具合に感心させられたことも、偽らざるところである。

次回この問題をもう少し掘り下げてみたい。

トップ写真:東京都警視庁(2020年1月23日 東京)出典:y-studio/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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