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.社会  投稿日:2024/10/24

「西行は武士を捨て歌人となった逃亡僧である」文人シリーズ第9回「北面の武士、西行」


斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)

「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」

【まとめ】

・西行は馬術に長け、皇宮の警護や競馬で活躍。

・その後、出家により愛馬と別れ、新たな人生へ。

・馬を通して自己を深く見つめ、多くの歌にその想いを込めた。

 

 歌聖と謳われ、吟遊詩人として知られる西行(1118~1190年)は出家するまで、皇居を警護する「北面の武士」、今でいえば皇宮警察官であった。それもただの護衛官ではなく、騎馬警官という超エリート武士団の一員だった。

 北面の武士になるにはいくつもの厳しい条件があり、武術に長けた大男、というだけでは足りない。まず眉目秀麗のイケメンであること。そのうえに、弓術や馬術、蹴鞠にすぐれ、詩文、和歌、管弦、歌舞音曲をよくする者というのだから、たいていの男は当てはまらない。現在なら、さしずめ、ひちりき奏者の東儀秀樹(とうぎ・ひでき)、天才騎手の武豊(たけ・ゆたか)、サッカーの魔術師三笘薫(みとま・かおる)を足して3で割ったようなスーパータレントだろう。

 西行の出家前の名前は佐藤義清(さとう・のりきよ)という。義清が北面の武士に就いたのは17歳のとき。鳥羽上皇とその子・崇徳天皇の護衛が仕事で、同僚には宮廷貴族の子弟や、当時台頭しつつあった武士階級の俊英が多くいた。義清は「科挙」のような難関を乗り越えて選出されたもので、さぞかし知勇兼備の美丈夫だったのだろう。

 ただ、任官の際、義清は相当な賄賂を贈ったと史書にあり、どうも事実らしい。一説には現在の金額にして2700万円ほどの絹織物を贈ったとある。若干17歳の青年が独力で調達できるわけもなく、和歌山の実家の土地を売って工面したという。朝廷権力に取り入る可能性もある北面の武士のステータスはそれほどに高かった。

 この時代、競馬(きそいうま)が流行っていた。鳥羽上皇が競馬好きだったことも大いに預かっている。欧州競馬が貴族社会の一大サロンを形成していたように、わが日本でもすでにこの時代、上皇や天皇を中心に華やかな競馬サロンが登場していた。競馬の最大のパトロンは洋の東西を問わず王家であったことは興味深い。今、中東においてはアラブ首長国連邦のドバイやサウジアラビアなどで競馬の隆盛が著しく、レースの賞金額も欧米や日本をしのぐ。ここでもパトロンはアラブの王様たちである。石油で稼いだ金を惜しげもなく競馬に注ぎ込み、欧州やアメリカの名馬をごっそり買い集めている。

 話を戻そう。現代競馬の最高峰、G1レースの「天皇賞」や「菊花賞」はこの時代に登場したレース名である。といっても、今の府中や京都の淀のような整備された競馬場があったわけではない。「寺社競馬」という命名に明らかなように、この時代の競馬は主に広大な寺社の境内で行われた。なかでももっとも有名なのが、京都の下賀茂神社で毎年5月に行われる天皇臨席の天皇賞競馬だ。馬券は売っていないが、勝手に賭け事にしていたという。

 私の敬愛する作家、嵐山光三郎氏に『西行と清盛』(中公文庫)という著作があり、西行(義清)が騎乗した競馬の場面を設定し、かなり気合を入れて書いておられる。小説であるから、どこまでが史実で、どこまでがフィクションかは氏の流麗な筆致に隠されてまったくわからない。

 義清が任官した年の秋口、崇徳天皇の熊野御幸の安全を祈願する競馬が開催された。義清が人知れず慕う鳥羽上皇の后、待賢門院璋子が観戦にやってきた。(←これはフィクションだろう。畏れ多すぎる)

 出走馬は8頭、騎乗者は義清を含めて8人。以下は嵐山氏が創作した出馬表である。肝心の馬名はなく、騎乗者、毛色・年齢・性別、そして馬の脚質が書いてある。あっ、予想まであった。

1枠 徳大寺公能  青毛牡5歳馬 先行     展開良ければ

2枠 徳大寺梢少将 黒毛牡4歳馬 逃げ     腰に不安

3枠 源渡     白毛牝4歳馬 差脚     期待上位・有力

4枠 平長盛    栗毛牝5歳馬 先行     勝ち目ナシ

5枠 佐藤義清   鹿毛牡4歳馬 追込み    騎手に難あり

6枠 藤原為業   葦毛牝4歳馬 先行     先行できれば

7枠 藤原為経   月毛牝5歳馬 差脚     ムラ馬の気

8枠 藤原俊成   白銀牝5歳馬 逃げ     叩けばヨシ

 1・2枠の徳大寺は上級公家。あるじの左大臣実能(さねよし)は鳥羽上皇の后、待賢門院璋子の兄であるから、その権勢は並ぶものがない。1枠の公能(きんよし)は嫡男、2枠の梢少将は公能のいとこである。3・4・5枠は武士階級で源氏と平家と義清。6・7・8枠は下級公家という構成。6枠の藤原為業は後に出家して寂念となり、7枠の藤原為経も同じく出家して寂超となった。大原三寂と呼ばれる有名な歌人3兄弟の2人である。藤原俊成はいうまでもなく、新古今和歌集の撰者、藤原定家の父である。

 本命は1枠の徳大寺公能、対抗は源渡(みなもとのわたる)、穴の一番手が藤原俊成で、二番手が義清との見立てである。

 レースはこの8頭が一斉に走るのではなく、2頭ずつ組み合わされトーナメント方式で勝ち上がる。よくよく見ると、実に考えられた面白い組み合わせだ。権勢を誇った貴族社会がやがて終わり、まもなく武家社会がやってくる。古代から中世へ。日本の大きな転換期を捉えて巧みに配置した出馬表だ。馬はどうでもよく、騎乗者のラインナップに意味がある。作者嵐山氏の奸計には脱帽するばかりである。義清は1回戦を勝ち上がったが2回戦であえなく敗退した。優勝したのは、北面の武士のなかでも馬術の名手として知られた3枠の源渡。つまり、源氏一族の覇権掌握、鎌倉時代の到来を暗示したのである。

 その後義清は23歳で出家、歌人として日本全国を行脚する西行法師となった。義清はなぜ出家したのか。嵐山氏はこう書いている。

「西行は逃げたのである。戦乱のさなかに死んでいった武者輩の仲間からみれば、卑怯者であり、逃亡僧である。西行は武士であった。軍人が戦争(保元の乱・筆者註)を前にして突如詩人にくらがえしたようなものである。武士でなければ恰好がつくが、武士であるがゆえにぶざまである。そのいらだちが西行を果てしない放浪へと誘った」

 なるほど、そうだったのか。出家の謎が解けた。

 ちなみに、放浪歌人西行に競馬を詠んだ歌は見当たらない。もしご存じなら、ぜひご教示願いたい。西行没しておよそ400年の後、西行の二度の東北行に憧れていた俳聖芭蕉は、念願だった奥の細道の旅の中で、こんな無粋きわまる句を詠んだ。

 蚤虱馬が尿する枕もと

「のみ しらみ うまが しとする まくらもと」

 これほどアンモニア臭が滲み出てくる文芸作品もめずらしいのではないか。尿が臭う。ほんとうは、馬の尿は勢いがあり、遠くからでも聞こえたよというのが彼の言いたかった光景だという。だが世間では、芭蕉は人馬同居の家に泊まらされ、馬小屋の隣部屋でのみとしらみに悩まされ、突然響く放尿の音に驚き、眠れない一夜を過ごしたと解されてきた。私もそうだった。奥州の伝統的家屋「曲り屋」だからさもありなんと思って怪しまなかった。この句の持つ破壊力、アヴァンギャルド性に気づかなかったのである

 北面の武士、西行も当然愛馬の面倒を見たことはあったろう。だが威勢のいい交響曲を寝物語に愛馬と一夜を共にしたことはあったろうかと、秋の夜の静寂の中でふと考えた。

 

引用・参考文献 『西行と清盛』(2012年・中公文庫)

 

トップ写真)賀茂祭の競馬の様子。1692-1696年 石川龍川(1692-1696)の『大和小祭絵抄』より(本文とは関係ありません)

出典)Photo by The Print Collector/The Print Collector/Getty Images




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