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.国際  投稿日:2025/5/5

ベトナム戦争からの半世紀 その9 最後のアメリカ軍将兵


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1973年3月29日、米軍が南ベトナムから完全撤退。

・最後に残ったのはオデル大佐ら56人。北ベトナム軍も駐在。

・オデル大佐は北ベトナム軍の申し出を拒否し、離脱。

 

サイゴンの街にはパリ和平協定の発効の日、済んだ鐘が鳴り響いた。市内に多数あるキリスト教会の鐘だった。1973年1月末だった。この朝、鐘の音を聞いた私はもしかすると本当の平和が実現するかもしれないな、と感じた。だがその感覚は幻想だった。それ以後の南ベトナムでは平和とも戦争ともつかない日々が続いた。軍事衝突は小規模とはいえどこかで毎日、起きていた。

和平協定では南ベトナム領内に潜伏する強大な北ベトナム軍部隊は手つかずだった。一方、長年の介入を続けてきたアメリカ軍は全面撤退する。この時点ではアメリカ軍の地上部隊はすでに引き揚げていたが、空軍や海軍はそれぞれの司令部機能とともに合計数万は残っていた。同時にアメリカ側が最大の懸念を向けた北側の捕虜となったアメリカ軍将兵の全面釈放も協定どおりに実施されることとなった。結局、この和平協定で合意通りに厳正に履行されたのは米軍の撤退と米軍捕虜の解放だけだったといえるようだ。

和平協定の真の意味とはなんだったのか。とくにアメリカにとってなにを意味したのか。当時、南ベトナムに10年近く駐在していたベテランのアメリカ人記者の言葉が忘れられない。ジョセフ・フリード記者、ニューヨーク・デイリー・ニューズ紙のサイゴン駐在特派員だった。私は連日の米軍の定例記者会見の場などで彼と知り合い、親しくなった。そのフリード記者は次のように語ったのだった。

「いいか、だまされるなよ。パリ和平協定なんて結局はアメリカのための“出国ビザ”なんだ。アメリカがいま最大の関心事である米人捕虜を共産側から取り戻し、南ベトナムから一応の格好をつけて出ていく。去ってしまえば、手をパンパンとはたいて、知らぬ顔さ。武器、弾薬だけは提供するから、あとはベトナム人同士で好き勝手にやってくれ、ということだ。そのベトナム離脱のための出国ビザが和平協定なのだ」

乱暴な言葉だったが、後からみれば、的を射た総括だった。ただしアメリカが南ベトナムに武器や弾薬までも十分には与えなくなるとは、フリード記者もこの時点では想像もつかなかった、ということだろう。

最後のアメリカ軍部隊が南ベトナムを去った日、タンソンニュット空港には強い風が吹いていた。パリ和平協定が発効してからちょうど60日目、1973年3月29日だった。協定が決めた予定通りの日程での撤退だった。

回顧すればアメリカ軍の南ベトナムへの介入は厳密には1962年2月、沖縄駐留の米陸軍支援部隊が軍政と兵站援助のグループを組織して、南ベトナムへ送りこんだときに始まったことになる。だがそれ以上に広範に知られるのは米軍の戦闘部隊の最初の介入、1965年のアメリカ海兵隊の南ベトナム中部のダナンへの上陸だった。この動きをもって米軍のベトナム介入の始まりとする解釈も多い。以来、1968年から69年のピーク時には米軍のベトナム駐留は54万人にも達したのだった。

だがいまやそのアメリカ軍が完全に去っていく。その歴史的な場面に私も立ち会っていた。タンソンニュット空港の軍事基地からの出発だった。米軍将兵の最終グループ56人がC141輸送機に粛々と乗りこんでいった。

そのかたわらには長年の敵だった北ベトナムと南革命政府の軍事代表の将校10数人が立っていた。パリ和平協定の履行を確認する目的でこの空港内の軍事基地の一部への駐在が認められていたのだ。だから彼らが米軍の最終撤退をその場で確認することも重要な使命だったのだ。

アメリカ軍側で最後まで残ったのは司令部勤務の高級将校と古参下士官だった。だから機内への乗りこみも落ち着いていた。最後の最後の離脱者はこのタンソンニュット空港のアメリカ空軍基地の司令官ポイント・オデル大佐だった。プロレスラーのような巨大な体躯のいかつい容貌の軍人だった。そのオデル大佐がC141機のタラップに足をかけると、脇に立っていた北ベトナム軍の将校がさっと駆け寄り、記念品を渡そうとした。だがオデル大佐は無言のまま首を振り、顔をそむけた。北の将校が握手のために差し出した手をも無視した。オデル大佐の目には涙があふれていた。大佐がそのまま、意を決したようにタラップを上がると、C141機はあっというまに飛び立っていった。アメリカのベトナムへの軍事介入の最終場面だった。

その場のメディアの取材陣のなかには著名な作家の開高健氏もいた。強い風のなかに立ち、最後のアメリカ軍将兵の動きをじっとみつめていた彼の姿をよく覚えている。

(その10につづく。その1その2その3その4その5その6その7その8

 

冒頭写真)米国への帰国の出発を待つアメリカ兵たち。1973年3月28日、 ベトナム ホーチミン
出典)Bettmann /GettyImages 




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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