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.国際  投稿日:2025/8/1

ベトナム戦争からの半世紀 その22 国際情勢はいかに


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」988回

【まとめ】

・1973年のパリ和平協定で米軍は完全撤退したが、北ベトナムは1975年に南ベトナムへ大規模攻撃を開始し、協定を事実上否定した。

・アメリカ国内では反戦世論と議会の援助消極化により、南ベトナム支援は縮小し、軍事再介入の政治的意思は失われていた。

・北ベトナムは国内世論を気にせず行動できる一党独裁体制の下、中国とソ連の軍事・経済支援を受けて戦力を拡充し、最終的な南侵攻を実現した。

 

 

世界を長年、揺るがせてきたベトナム戦争が劇的な変化を迎えたとき、この戦争を囲む国際情勢はどうなっていたのだろうか。とくにこの戦争の長期の当事国でもあったアメリカの動きはどうだったのか。さらに北ベトナムを支援する中国やソ連の動向はどうなっていたのか。

 

すでに述べたように、南ベトナムの政府や国家を打倒しようとする北ベトナム労働党の首脳が最後の最後まで気にしていたのはアメリカの動きだった。南領内に大部隊を投入し、国運をもかけた大戦争を展開する際に、万が一にもアメリカが再び軍事介入してきたらどうなるのか。そもそも軍事再介入の可能性はまったくないのか。懸念するのは当然だった。

 

この戦争では一貫して、アメリカの軍事パワーが最大の切り札だったのだ。北ベトナムの革命勢力が1968年にも、さらに1972年にも、大部隊を投入して、南ベトナムの中枢地区を占拠しても、結局は米軍の全面支援を得た南ベトナム軍に撃退されてしまった。

 

だがそのアメリカはパリ和平協定により1973年3月29日、南ベトナムに駐留してきた米軍の最後の将兵を完全に撤退させた。和平協定が調印されてからちょうど60日、規定通りの撤退だった。南領内に布陣した北ベトナム軍の大部隊はそっくりそのままだった。協定に調印した当事者は北ベトナム、アメリカ南ベトナム、さらに南臨時革命政府の4者だった。協定は南ベトナムの将来について完全な停戦後に南ベトナム、南臨時革命政府、第三政治勢力の3者の間で総選挙によって決めると規定していた。

 

ところが1975年3月の現状ではその和平協定の1当事国の北ベトナムが他の当事国の南ベトナムを軍事攻撃によって粉砕しようとするのである。この行動が和平協定の違反というよりも、協定自体の完全な否定であることは明白だった。

 

この点について協定の発効の時点では当時のアメリカのリチャード・ニクソン大統領は南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領に対して「北ベトナムが協定違反の軍事力により南政府に大規模な攻撃をかけた場合はアメリカがその阻止に軍事再介入をする」という秘密の約束を与えていた。だが前述のように、そのニクソン大統領は1974年8月9日に辞任に追い込まれた。政敵の民主党全国本部に共和党活動家たちが侵入して、書類の盗みなどを働いたウォーターゲート事件で実はニクソン大統領自身がその命令を下していた疑いが強まり、辞任となったのだ。その後任はそれまで副大統領だったジェラルド・フォード氏となった。

 

フォード氏は共和党穏健派の政治家で長年、下院議員を務め、1972年の大統領選挙ではニクソン氏の副大統領候補となり、当選した。堅実な保守派とされる以外にはニクソン氏のような大胆な政策をとることはなかった。フォード政権ではなおパリ和平協定の立役者ヘンリー・キッシンジャー氏が中枢にあって、南ベトナム政府への軍事、経済の援助を続けようと努めたが。議会は与党の共和党も含めて、ベトナム戦争への関与には難色を示していた。

 

アメリカ国内ではもともとベトナムへの軍事介入にはかなり広範な反対があった。1965年に海兵隊のダナン上陸によりアメリカの正式の軍事介入が始まったが、その3年後の北側の大規模なテト攻勢ごろからアメリカ国内で反戦運動が広まった。顕著だったのは1970年5月のオハイオ州のケント大学での反戦集会だった。多数の学生の集まりに州兵が発砲し、4人の死者が出た。

 

アメリカの政権や議会ではなお共産主義の北ベトナムが民主主義の南ベトナムを武力で倒そうとする動きを危険視して、南ベトナムへの軍事支援を支持する政策が保たれていた。ベトナムでの戦いは基本的に共産主義勢力の国際的な膨張だから、その抑止はアメリカの義務だとする認識が強かったわけだ。南ベトナムが共産化されれば、次はタイにまで共産主義の膨張が続くとする「ドミノ理論」も米側の国政の場では真剣に論じられていた。

 

しかしアメリカが数万、やがては50万もの軍隊をベトナムに投入しても、北側の軍事攻勢は終わらず、衰えもしなかった。アメリカ国内の世論はこの戦争への自国の直接の介入に反対する方向へと着実に移っていった。ニクソン大統領もこの世論の動きに対応して、ベトナム離脱を決めたのだった。戦闘は南ベトナムに任せるという戦争の「ベトナム化」だった。この動きは当然ながらアメリカが自由民主主義の世論の国だという基本から発していた。政府のどんな政策も国民の大多数が反対すれば、成り立たないという基本である。

 

だから1975年春の南ベトナム存亡の危機の際でも、アメリカ議会は南政府への援助には難色を示すことが多かった。このアメリカからの援助の激減は南ベトナムのチュー大統領がその年の3月、私たち日本人記者団との会見で悲痛な訴えを述べたとおりだったのだ。アメリカではフォード政権の国務長官という立場にあるキッシンジャー氏が南ベトナムの危機はアメリカが十分な軍事援助を与えなかったからだと主張して、今後3年間だけ緊急に豊富な援助を与える提案を議会に出そうとした。フォード大統領自身も南ベトナム政府への3億ドルの緊急軍事援助案をすでに議会に送っていた。しかし議会は動こうとしなかった。

 

この点、攻撃を続ける側の北ベトナムには絶対的な強みがあった。共産主義政党の一党独裁下では「世論」を気にする必要はなかったのだ。しかも独裁の政権は国営通信を動員しての虚偽の情報の配布も平然と実行していた。前述のように1975年春の南ベトナム領内での軍事作戦を総指揮する北ベトナム人民軍のバン・チエン・ズン参謀総長が2月にひそかに南領内に潜入して、そのまま北ベトナムには戻らなかったのに、北の国営通信は「ズン参謀総長はハノイで外国の軍司令官の訪問を出迎えた」という種類の虚偽の報道を流し続けていたのだ。この種の虚偽報道はアメリカでも、南ベトナムでもまず不可能だった。民主主義システムの非常時の弱みともいえようか。

 

さらにその共産主義の国際的な連帯としてソ連と中国の両方が続けていた軍事、経済両面での北ベトナムへの大規模な援助は揺るぎはなかった。ソ連と中国は1970年代のこの時期、不仲ではあったが、ともに反米の基軸としての北ベトナム支援は怠らなかった。

 

戦争の最終段階で首都サイゴンに攻め込んできた北ベトナムの軍隊の装備をみても、戦車、装甲車、兵員輸送車、長距離砲など、主要兵器はみな中国製、あるいはソ連製だった。戦後さらに中国側から明らかにされたのは中国人民解放軍の北ベトナム軍への対空砲火の大幅支援だった。私がベトナムに赴任してからの3年ほどの間でも、北ベトナムを爆撃するアメリカ軍の戦闘機、爆撃機の撃墜が着実、かつ大幅に増えていった。

 

当初は米側のB52戦略爆撃機が高度を飛び、北ベトナム側の軍事目標に爆弾を落としても、そのB52が地上からの砲火で撃ち落とされることは皆無に等しかった。ところが1年、2年が経つと、その超高度を飛ぶ戦略爆撃機も撃墜されるようになったのだ。その地上砲火の威力の増大は中国軍の支援が大きかったことが戦後の中国側の資料でも明らかにされた。中国の国内では1970年代は文化大革命によって政治的な混乱をきわめていたが、ベトナムの共産主義政権の対米闘争を支援するという対外政策はきちんと守られていたわけだ。

 

だがアメリカ側には北ベトナムのパリ和平協定の重大侵犯を理由に南ベトナムを再び助けるという政治意思はほとんどなくなっていたのである。

 

(その23につづく。その1その21

トップ写真)北ベトナム軍から逃げる南ベトナム人(1975)

出典)Photo by David Hume Kennerly/Bettmann/Corbis via Getty Images




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