キッシンジャー氏のベトナム離脱の大失態
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・米外交戦略での超大物キッシンジャー氏が100歳の長寿を終えた。
・キッシンジャー外交の失態は、氏が進めたベトナム和平。
・後にベトナムでの同盟国の喪失は大きな誤算によるとして自らの失態を何回も認めた。
アメリカの外交戦略での超大物とされたヘンリー・キッシンジャー氏が100歳の長寿を終えた。11月末の逝去だった。元国務長官、元大統領補佐官のキッシンジャー氏はその明晰な頭脳、冷徹な戦略、精緻な外交感覚などを賞賛された。彼の実績としてはまずアメリカを中国と接近させた対中外交、そしてベトナム戦争を終結させた和平交渉などが筆頭とされた。
そのキッシンジャー氏の外交の軌跡への論評は日本国内でも大量だった。そのほとんどが彼の実績を輝かしい成果のように賞賛していた。だがキッシンジャー外交には巨大な負の部分もあった。功罪のなかでの罪といえる局面も顕著だった。とくに私にとってはベトナムでの戦争とその終結を現地で実体験した立場からキッシンジャー外交の失態を指摘せざるを得ない。
キッシンジャー氏の死去は私にとって半世紀も前の南ベトナムでの彼との対面をいやでも想起させた。その記憶はキッシンジャー外交の大きな「負」の回顧となる。キッシンジャー氏の外交の功罪で大きな功とみなされがちなベトナム和平交渉の歴史的な失態を現地で目撃した体験は決して忘れることができない。
1972年夏、私は南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)駐在の特派員だった。毎日新聞の記者だった。キッシンジャー氏は戦争が下火となったその時期、パリでの北ベトナム(ベトナム民主共和国)政府代表との和平交渉を進め、その状況を同盟国の南ベトナム(ベトナム共和国)政府に伝えにきていた。長年、続いてきたベトナム戦争、とくにアメリカの大規模な軍事介入を終わらせそうな秘密の交渉がパリで進んでいたのだ。アメリカはその進展状況を同盟国である南ベトナムに事後報告として伝達していたのだ。
戦争の最大の当事者であり、被害者でもあった南ベトナムは自国の運命を決めるこのパリでの交渉からは外されていた。全面支援を受けてきたアメリカが停戦や和平に向けても絶対の権限を有していたのだ。
当時のサイゴンに駐在する各国の報道陣にとって当然ながらこのパリでのアメリカ・北ベトナムの交渉の内容は最大の関心事だった。その内容を熟知するキッシンジャー氏がサイゴンへ来訪すれば、彼の口からなんとかしてこの交渉の中身を語らせようと必死になるわけだった。
キッシンジャー氏はその時期、南ベトナムには何度か来訪したが、とくに記憶に残っているのは1972年8月のパリの帰途の立ち寄りだった。
私はサイゴン近郊のタンソンニュット空港で10数人の各国記者たちとともに同氏に接近し、質問をしたのだった。目前に立つキッシンジャー氏は微妙な笑いを浮かべていた。地面に響くように低く太いドイツなまりの声で挨拶は愛想よく述べたが、交渉の内容は語らなかった。がっしりした体躯のキッシンジャー氏の背がとても低いのにやや驚いたことを記憶している。
当事者のキッシンジャー氏は北ベトナム側との交渉についてなにも教えてはくれなかったが、その後、その実態は別の方面から明らかになっていった。まずは南ベトナム政府がもう恐怖ともパニックとも呼べる態度で情報をリークし始めたのだった。その骨子は以下のようだった。
▽南ベトナム領内で戦闘がなお続きながらも膠着した状態の下、アメリカ軍は戦闘を全面停止して、完全に撤退する。
▽北ベトナム側はその代償という形でそれまで拘束していた600人ほどのアメリカ人捕虜を釈放する。
▽だが南ベトナム領内で軍事行動を続けてきた数万、十数万の北ベトナム軍はそのまま南に残留することが認められる。
▽南ベトナム政権は北ベトナム指揮下のゲリラ勢力である南ベトナム解放戦線と政治的に同等の扱いを押しつけられ、選挙にのぞむ。
以上は要するにアメリカにとってだけの和平を意味していた。アメリカの南ベトナムに対する長年の支援の終結だったのだ。その背景にはアメリカ国内での広範な反戦世論が存在した。
アメリカと北ベトナムのこの趣旨の合意の総括は73年1月にパリで調印された「ベトナムの戦争終結と平和回復の協定」だった。この協定がもたらしたのはアメリカ軍の完全撤退とアメリカ人捕虜の帰国だけだった。ベトナムでの戦争は終わらなかった。平和も実現しなかった。
写真)パリで停戦合意に調印する、ヘンリー・キッシンジャー米特使と北ベトナム のLe Duc Tho(レ・ドク・ト)特使。1973/1/23 フランス、パリ
その後の2年余、南ベトナム領内では南北両方の国家が軍事衝突を続けた。この状態は戦争の「ベトナム化」とも呼ばれた。南領内の北ベトナム軍は軍事攻勢を絶やすことがなかったのだ。真の平和は一日たりとも回復されなかった。
しかしキッシンジャー氏はこの「和平」のためにノーベル平和賞を受けた。だが交渉相手だった北ベトナム労働党(共産党)のレ・ドク・ト政治局員は受賞を辞退した。象徴的なコントラストだった。
北ベトナム側は緩急に続けた軍事攻勢を2年後には国家の総力を南ベトナムの戦場に投入する軍事大攻撃へと発展させた。そして2ヵ月たらずの間に南ベトナムの政府と軍隊を完全に軍事粉砕したのである。
北ベトナムはこの間、南ベトナムとの和平のための交渉には一切、応じなかった。パリ和平協定が決めていた「軍事行動の停止」、「平和的な統一」、「民族和解」などにすべて違反する軍事攻撃だったのである。その結末は1975年4月30日のサイゴン陥落だった。私はその地にあって、一つの国家と政府、一つの社会が分裂国家とはいえ、外部からの軍事攻撃によって完全に破壊されるのを目撃した。
写真)サイゴン陥落中、ベトコンの砲火にさらされながらタンソンヌット空軍基地で民間人の避難を警備する米海兵隊 1975年4月15日、サイゴ ン
出典)Photo by Dirck Halstead/Liaison
パリ協定には当時のアメリカのリチャード・ニクソン大統領と南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領との「北ベトナムが協定破りの大規模な軍事攻撃に出た時は米軍の再介入もある」という秘密の合意があった。だがそのニクソン大統領は北の大攻撃以前にウォーターゲート事件で辞任していた。
アメリカはパリ和平協定以後、南ベトナムへの武器や弾薬の供与も減らしていった。他方、北ベトナムは共産主義の同志のソ連と中国の両方から安定した軍事支援を得ていた。そしてアメリカの歴代政権が共産主義勢力の拡大を防ぐという意図で支えてきた南ベトナム政権はサイゴン陥落により消滅した。
北ベトナムは大勝利の直後に、この長年の闘争は民族独立だけでなく、共産主義革命であったことを堂々と宣言した。その主体はあくまでベトナム共産党だったとも誇らしげに述べたのだった。
アメリカが支援した民主主義の南ベトナムは消滅した。その破局を座視したアメリカはベトナム反戦の世論に満ちていたのだ。
キッシンジャー氏が進めたベトナム和平とはそんな結末だったのである。同氏自身も後にベトナムでの同盟国の喪失は大きな誤算によるとして、みずからの失態を何回も認めた。
写真)北ベトナムからの侵略軍からの避難を求めて米軍艦に近づく南ベトナム難民。1975年4月、サイゴン近くの南シナ海
出典)Photo by Dirck Halstead/Getty Images
南ベトナム国民の多くがアメリカの支援の継続を望んでいたことも、いやというほど証明された。サイゴン陥落からその後の20年近く、旧南ベトナムからは数百万人もの国民がボートピープルなどとして国外へ脱出していったのだ。長いベトナム戦争の期間中、南ベトナム国民が荒海での危険を覚悟して、小舟に命を託し、政府の取り締まりにも逆らい、自国を捨てるという現象はまったくなかった。この事実をみると、キッシンジャー氏が達成した「ベトナム和平」の虚や負はさらにはっきりしてくるといえよう。
トップ写真:カマラ・ハリス米国副大統領とアントニー・ブリンケン米国務長官主催のインドのナレンドラ・モディ首相を招いた昼食会に出席するヘンリー・キッシンジャー元米国務長官。2023年6月23日 米 ワシントンD.C.
出典:Photo by Alex Wong/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。