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.国際  投稿日:2025/8/4

ベトナム戦争からの半世紀 その23 奇妙な「クーデター」


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」989回

【まとめ】

・南ベトナムでグエン・カオ・キ元副大統領側近がクーデター未遂容疑で逮捕。これは政府の先制攻撃だった

・摘発当日、キ将軍と反政権派のタン神父が「救国行動委員会」の結成と「救国政府」の樹立を宣言、チュー政権への正面からの挑戦となった

・一連の政治的動向は、軍事的危機に加え、南ベトナムという国家の内部からもその存立を脅かすものだった

 

 国家存亡の危機が迫った南ベトナムの首都サイゴンでまた奇妙な動きが起きた。グエン・バン・チュー大統領が率いる政権に対してクーデターが起きそうになったが、未然に防がれたという発表だった。

1975年3月27日のことだった。

南ベトナム政府の内務省が以下のような発表をしたのだ。

 「共産側の全国大攻勢による混乱に乗じて、個人的な野心を満足させるため、ひと握りの少数分子がわが合法政権を転覆させようとする陰謀を図った。これら分子はすでに逮捕された」

 政権転覆というのならば、クーデターである。ただし逮捕者の名前は発表されなかった。あちこち調べてみると、元上院議員や仏教系の大学の教授など5人ほどだった。元上院議員のタイ・ラン・ジエム、ファン・ナム・サク両氏、仏教系大学教授のグエン・タン・ビン氏などという名前だった。私がサイゴンの政界の取材を3年も続けていて、いずれも一度も聞いたことのない名前の人物ばかりだった。ところがさらに調べると、これら5人はみなグエン・カオ・キ元副大統領ときわめて親しい関係にあることがわかった。

 キ氏といえば、チュ大統領とせりあった有名な将軍である。もともとは空軍のパイロットで、それなりに戦歴を重ねた軍人だった。スマートな痩身の体躯、軍服でも私服でも、格好のよい外見、真っ黒な口ひげでも知られる著名な人物でもあった。政治的にも活発に動き、アメリカからも重用されて、一時は副大統領まで務めた。日本でもメディアの報道により、かなり広範に知られた人物だった。

そのキ氏は現在の大統領のチュー氏とともに南ベトナム政権の頂点を目指したが、1971年の大統領選挙ではチュー氏に敗れた。以来、サイゴン近郊の空軍基地内の自宅にひっそりと暮らしてきたが、それなりに支援する人たちも多かった。

 そのキ将軍は実はこのクーデター未遂の発表があった日の前日、つまり3月26日、基地内の自宅でひそかに支援者たちを集めて会合を開いていたことが判明した。翌日に逮捕された5人はみなこの会合に加わっていた。つまりキ将軍派の反政府の動きへの政府側の先制攻撃がこの「クーデター未遂事件摘発」だったのだ。

 そのキ将軍はこの摘発があった日、つまり3月27日の午後、正式の記者会見を開いた。空軍基地内の広壮な自宅でだった。内外のメディアを招いていた。私も出かけていくと、確かにグエン・カオ・キ元副大統領がダンディなサファリ・スーツに身を固め、中央の席に座っていた。その隣にはカトリック教の指導者、チャン・フー・タン神父が黒い法衣を着て同席していた。タン神父はかねてからチュー政権に批判的な立場をとり、チュー政権には腐敗分子が多いと宣言して、「反腐敗人民運動」という政治組織の結成していた。

 キ、タン両氏はこの会見で以下のような宣言をした。

「私たちは母国のベトナム共和国を危機から救うために『救国行動委員会』の結成を宣言する。その目標は『救国政府』の樹立にある」

 この宣言はいまのベトナム共和国、つまり南ベトナムの合法政権であるグエン・バン・チュー政権への正面からの挑戦だった。チュー政権がこの動きを「クーデター」と断じて、キ氏の側近を事前に逮捕したことは自衛の措置だった。ただしその反乱の首謀者で軍にも影響力の強いキ将軍までも逮捕してしまうことはためらったわけだ。

 キ将軍やタン神父は南ベトナムの政界でも従来からチュー大統領とは距離をおく存在だった。だからパリ和平協定に従えば、将来の南ベトナムの政体を決める総選挙では「第三勢力」という範疇に入っただろう。ただしここで重要な点はこの勢力も北ベトナムや南解放戦線という共産勢力には非常に激しい反発を抱いていたことである。キ、タン両氏とも

本来は北ベトナムの出身で共産主義体制への反発が強いカトリック教徒だった。それが1954年のジュネーブ協定後の南北分裂の際に、北から南へ移住してきたのだった。南ベトナムでは建国以来、北ベトナム出身のカトリック教徒たちが政府でも軍隊でも北の共産政権に対する最も強い敵対姿勢をみせ、いわば反共の岩盤層となってきたのだ。

 しかしこの「クーデター」はチュー政権にとってはその存在自体を内部から揺らがす反発だった。南ベトナムに現在の合法政権とは異なる「救国政府」をつくるという宣言だったからだ。南ベトナムという国家はいまや軍事面での危機だけでなく、内政面でも危機存亡の崖っぷちに追い込まれたのだった。

(その24につづく。)

トップ写真)1975421日、初のロケット弾攻撃がサイゴンを襲った

出典)Jacques Pavlovsky/Getty Images

 




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