ベトナム戦争からの半世紀その51 北軍の最終戦略
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
■本稿のポイント
・北ベトナム軍は約15個師団を投入し、5方面から同時進撃する圧倒的兵力の総攻撃でサイゴン攻略を進めた。
・南ベトナム軍は首都防衛の主力4個師団が短時間で壊滅し、軍事的抵抗能力を完全に喪失した。
・ミン大統領は停戦交渉を試みたが北側に拒否され、交渉不在のまま一方的な軍事制圧が進行した。
1975年4月29日から30日にかけてのサイゴン最終攻防戦について、筆者(毎日新聞サイゴン支局長)は、北ベトナム軍が約15個師団を動員した大規模かつ組織的な総攻撃により、南ベトナム軍を短時間で壊滅させた実態を描いている。本記事は、南側が停戦交渉を試みるも北側に拒否され、交渉の余地がないまま軍事的決着へと進んでいった過程を明らかにした記録である。(Japan In-depth編集部)
北ベトナム軍はどのようにサイゴン攻略を進めたのか?
さて闘争の主役の北ベトナム人民軍の正規軍はサイゴンの攻略をどう進めていたのか。
南ベトナムの政府も国家も、すべてを軍事力によって粉砕することになる大作戦をどう完結させたのか。同人民軍の参謀総長バン・チエン・ズン将軍の戦記を追ってみよう。
北ベトナム正規軍の15個師団にものぼる大部隊は5つの攻撃翼を形成して、5方面からサイゴンへの進撃を計画していた。五稜の星のように分かれた5軍団だった。一個軍団が複数の師団から成っていた。なにしろ1個師団といえば、1万人近くの将兵が集まる重武装の集団である。北ベトナムは国家として持てる軍隊の9割ほどをこの南ベトナム攻略の最終作戦に投入していたのだ。
サイゴン総攻撃はいつ始まったのか?ホーチミン作戦最終段階の実態
この5軍団がいっせい攻撃に出たのは4月29日午前5時だった。ホーチミン作戦の最終段階だった。私にとってはちょうどタンソンニュット空港を叩く北軍の130ミリ砲の一斉砲撃でアパートの建物を揺さぶられ、砲撃の数を数え始めた時間だった。
南ベトナム側も首都圏にはなお守備の兵力を保ってはいた。サイゴン北西の30キロほどの要衝ハウギア省のクチ基地には南軍の第25師団が集結していた。だがそこへ北軍第3軍団の3個師団が襲いかかった。この圧倒的な兵力差に南軍第25師団は29日のうちに粉砕され、リ・トン・バ師団長は捕虜となった。
サイゴン北50キロほどの国道13号沿いのライケ基地は南ベトナム軍第5師団が布陣していた。レ・グエン・ビ師団長はサイゴンの総司令部との交信がとだえたため、麾下の全部隊をサイゴン方面へと移動させようとした。だがそこに北軍の第1軍団の大部隊が攻撃をかけてきた。第5師団は敗北し、ビ師団長は自決した。4月30日の早朝の出来事だった。
サイゴン首都圏の東方を守っていた南ベトナム軍第18師団も30日早朝、北ベトナム軍第2軍団の総攻撃を受けて散り散りとなった。第2軍団も3個師団から成る大部隊だった。同軍団はサイゴン橋を越えて、市内の中心部に近いところまで突撃してきた。ほぼ同じ時間帯にサイゴン南西のメコンデルタへの通路に当たるタンアン地域に布陣していた南ベトナム軍の第22師団も数倍の兵力の北ベトナム軍大部隊に攻撃され、ほぼ殲滅となった。
この結果、4月30日午前10時ごろまでに南ベトナム政府軍は首都圏の防衛にあたった第25師団、第5師団、第18師団、第22師団の合計4個師団を失ったのだった。この首都圏最後の攻防戦に完全に勝利した北ベトナム軍はなんと合計15個師団の大兵力を投入していたのだ。南軍にくらべて4倍ほどの兵力だった。
南ベトナム軍はなおサイゴンからはるか南のメコンデルタ地域の主要都市ミト周辺に第7師団が健在だった。だが首都の防衛に加わることはできなかった。メコンデルタのさらに南の奥深い地域には南軍の第9、第21陵師団が無傷のまま駐屯していたが、サイゴン防衛への参加は不可能だった。これらの師団はいずれもサイゴン陥落後に降伏し、武装解除した。だから南ベトナム側のミン大統領の午前10時ごろの戦闘停止の宣言も、南軍の防衛全体が崩れ去ったことがあまりにも明白になった時間帯と一致するわけである。
北ベトナム軍のこの最終作戦の実態をみると、南軍に対して圧倒的に有利な兵員、兵器、戦力を確保したうえで、一挙に総攻撃に出るというきわめて合理的な戦略が鮮明となる。一般にベトナム戦争では少数の革命側のゲリラが貧弱な装備ながら、フル装備のしかも多数のアメリカ軍や南軍に対して果敢な戦いを挑み、勝利をおさめた、というイメージが広範だった。だが現実には繰り返しとなるが、革命側はあくまで質量ともに完全な優位を保ったうえでの近代兵器を駆使しての攻撃だったのだ。
なぜ停戦交渉は成立しなかったのか?北ベトナムの戦略判断
戦争のこの最終段階ではもう一つ、当事者間での重大なやりとりがあった。この実態もズン参謀総長の戦記から明らかにされた。
南側のミン大統領はサイゴン陥落の前日の4月29日の夕方、北側にひそかに特使を送っていたのだ。具体的にはタンソンニュット基地内の革命政府軍事代表団への3人の特使派遣だった。その3人は南側でもチュー政権とは距離を置いていた第三勢力とされるチャン・ティン神父やチャン・ゴク・リエン弁護士だった。3人は革命政府代表団の次席のザン大佐と面会し、「なんとか停戦を」 というミン大統領の懇請を伝えた。だが革命側、つまり北ベトナムは「共産主義に反対する者とは一切、交渉しない」という声明を根拠に一蹴した。それだけでなく3人の特使をそのまま監禁し、南ベトナム政権への帰還を止めてしまったのだ。
ミン大統領らはこの3人の特使を必死で待っていた。特使から北ベトナム側の意向を聞き、一方的にでも南側からの停戦宣言を出すことを切望していたのだ。だが北側は南側との交渉は一切、しないという基本方針だった。「共産主義に反対する者」となると南側ではミン大統領も含めて、どの政治勢力もその定義づけに該当してしまうのだ。要するに北側は南の体制全体を完全に否定していたのだ。南側にとっての悲劇はこの点にもあった。ミン大統領は特使の帰還を待たねば、新たな声明を出すことは難しかった。その間に北側はサイゴン全体を完全に軍事制圧するための作戦を電撃のように進めていった。
4月29日はこんなふうに過ぎていったのだった。
(その52につづく)
■歴史を深く知るためのFAQ
Q1. 「ホーチミン作戦」とは何か?
A.1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを攻略するために実施した最終的な軍事総攻勢である。当初は段階的に進められる統一計画の一部とされていたが、南側の防衛線が想定以上に早く崩壊したため作戦が前倒しされ、同年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は事実上終結した。
Q2. なぜ北ベトナム軍は圧倒的兵力を投入できたのか?
A.1973年のパリ協定による米軍撤退後、北ベトナムはソ連・中国からの軍事援助を背景に戦力を維持・再編し、南部戦線に集中的に投入した。一方、南ベトナムは米国の援助削減により補給面で制約が強まり、結果として北側が相対的な補給優位を保った状態で決定的局面に兵力を集中できたためである。
Q3. ベトナム戦争は「ゲリラ戦」のイメージと何が違うのか?
A.戦争初期から中期にかけては南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)によるゲリラ戦が中心だったが、1975年の最終局面では北ベトナム正規軍による大規模な近代戦が主軸となった。戦車や重砲を含む諸兵科連合部隊による正面攻撃によって、南ベトナム軍の防衛線が突破された点が大きな特徴である。
Q4. なぜ南ベトナムは停戦交渉に失敗したのか?
A.1973年のパリ協定が実質的に機能しなくなる中で、南北双方の政治的対立は解消されず、北側は軍事的統一を優先する方針を維持した。その結果、最終局面では北側にとって交渉の必要性が低下し、南側の停戦模索に対して実質的に応じない状況となり、交渉の余地は大きく制約されていた。
Q5. サイゴン陥落はなぜ短期間で決着したのか?
A.1975年3月の中部高原(タイグエン)での敗北を契機に、南ベトナム軍の戦略的撤退が混乱を伴って進み、指揮系統や部隊統制が大きく動揺した。この結果、防衛線の再構築が間に合わず、北ベトナム軍の進撃に対して組織的な抵抗が困難となり、短期間で決着に至った。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
トップ写真)Boarding helicopter inside US Embassy , Fall of Saigon, Vietnam, 1975 m War, 1975
出典)Nik Wheeler / 寄稿者 / Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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