函館・北洋漁業資料館で考えた「獲れる時に獲る」ことの合理性 北洋漁業の栄光と終焉
執筆:杉山大志(キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹)
【本稿のポイント】
・函館市北洋資料館を訪れ、かつて函館が北洋漁業の一大基地であったことを実感した。
・北洋漁業は、カニ、サケ・マス、ニシン、スケトウダラなど、魚種と海域を変えながら発展した。
・戦争で国境が激変するような時代には、「獲れる時に獲る」ことにもそれなりの合理性があった。
函館市北洋資料館の訪問で、この街がかつて北洋漁業の基地として日本経済を支えた歴史にふれたキヤノングローバル戦略研究所 研究主幹の杉山大志氏。条約と戦争で漁場の境界が目まぐるしく変わるなか、「獲れる時に獲る」という漁業者の判断にはそれなりの経済合理性があったことを、展示の前で改めて考えたことについてまとめている。(Japan In-depth編集部)
日本で魚があまり獲れなくなった、という話をよく聞く。
その理由として、気候変動だ、外国船のせいだ、といったことが言われる。だが、日本自身の乱獲、資源管理の甘さこそが原因である。
動画:杉山大志チャンネル(キヤノングローバル戦略研究所)
この点について、片野歩氏は、かねてより詳しく論じている。海外では科学的な管理によって資源を維持、回復している例がある一方で、日本では「魚がいなくなった」理由を自然環境や外国に求めがちで、肝心の乱獲の問題を直視していない、という指摘である。
そんなことを考えていた折、北海道で函館市北洋資料館を訪れる機会があった。
場所は五稜郭のすぐそばである。建物は新しいわけではない。だが展示はたいへん充実していて、見始めるとすぐに引き込まれた。函館という街が、かつて北洋漁業といかに深く結びついていたかが、写真、模型、漁具、缶詰、航路図などを通じて、生き生きと伝わってくる。
■ 函館を支えた北洋漁業とは何だったのか
北洋漁業の規模は壮大だ。函館などを基地として、樺太方面、千島列島はもとより、オホーツク海、カムチャツカ、ベーリング海、アリューシャン列島にまで船を出した。対象となった魚種は、カニ、サケ・マス、ニシン、タラ、カレイ、後にはスケトウダラなどである。
昔はカニを獲り、船上や現地で加工し、缶詰にして輸出した。サケ・マスも同じく缶詰となり、貴重な外貨を稼いだ。
いまならば「なぜもっと漁業資源を管理して後世に残さなかったのか」と思ってしまう。だが、資料館の展示を見ていると、そう簡単に現在の物差しだけで判断できないことが分かる。
出漁前の漁師たちの写真があった。カフェか酒場のような場所で、にぎやかに飲み、笑い、騒いでいる。これから北の荒海へ何か月も向かうのである。厳しい仕事である一方で、大きな稼ぎをもたらす仕事でもあった。函館の街には、その船団を送り出す熱気があったことがしのばれる。
■ 国境はなぜ漁業の運命を左右したのか
北洋漁業の歴史は、国境の歴史でもある。
1875年の樺太千島交換条約で、日本は千島列島を得るかわりに樺太全島をロシア領とした。1905年、日露戦争後のポーツマス条約では、日本は南樺太を得た。さらに1907年の日露漁業協約によって、日本人漁業者はロシア極東沿岸で操業する制度的な足場を得た。
こうして日本の漁業は、カムチャツカ、樺太、千島、オホーツク海方面へ広がっていった。サケ・マス、ニシン、カニなどを追って、漁場は北へ北へと伸びていく。だが、その海は安定した「自分たちの海」ではなかった。条約によって開かれ、戦争によって閉ざされ、また交渉によって条件が変わる海だった。
太平洋戦争が激しくなると、北洋漁業は中断される。敗戦後、日本は南樺太と千島を領海ともども失い、加えて「マッカーサー・ライン」とよばれる遠洋漁業の制限を課された。北洋漁業が本格的に再開されるのは、1952年にマッカーサー・ラインが撤廃されてからである。
■ 200海里時代がもたらした北洋漁業の終焉
戦後の再開後、北洋漁業は再び大きく発展した。母船式サケ・マス漁業では、巨大な母船を中心に多数の独航船が従い、300隻以上もの大船団を組んで北の海へ出た。母船式カニ漁業も、オホーツク海やベーリング海方面へ向かった。やがてスケトウダラも重要な魚種となり、すり身原料として大量に漁獲された。
函館からそうした船団が出ていく様子を想像すると、いまの港の風景とはまるで違う。現在の函館には大型の観光客船も入る。だが、かつてそこにあったのは、観光ではなく、北の海へ向かう漁業艦隊の威容だった。街の経済も、人々の暮らしも、その船団とともにあった。
しかし、その繁栄も永遠ではなかった。
1950年代以降、日米加、日ソの漁業交渉によって、サケ・マスやカニには漁獲量や操業海域の制限がかかるようになった。そして決定的だったのが、1977年ごろから本格化する二百海里時代である。米国やソ連が沿岸から二百海里の漁業水域を設定し、日本の遠洋漁業、北洋漁業は大きく締め出されていった。
現代的な感覚では、乱獲はいけないことで、資源は守らなければならない、と言うのが普通である。それはもちろん一面の真理なのだが、しかし、北洋漁業の歴史を見ると、当時の漁業者にとっては「獲れる時に獲る」という行動には、それなりの合理性があった。
なにしろ、海をめぐる条件が目まぐるしく変わるのである。国境が変わる。条約が変わる。戦争で操業できなくなる。敗戦で漁場を失う。再開したと思えば、今度は漁業交渉や二百海里規制でまた海が狭くなる。
十年、二十年先にも同じ漁場で操業できる保証など、もとより無かった。ならば、その魚を残しておいたとして、将来その利益を自分たちが受け取れるとは限らない。そういう状況であれば、いま獲れる魚を、いま獲る、という判断には、それなりの経済合理性があった。
これは資源経済学の教科書には必ず書いてあることだけれども、乱獲というものが、所有権などの制度の不安定さと結びつくことが、改めて腑に落ちた。
函館市北洋資料館を出ると、五稜郭近くの街は桜が満開だった。観光客がそぞろ歩き、港には大型のフェリーが着岸している。
その向こうに見えた幻は、北洋へ向かう大船団の雄姿である。国際関係に翻弄されながら、北の海へ向かい続け、外貨を稼ぎつづけた函館の街。カニを追う船。サケ・マスを積む母船。カムチャツカの缶詰工場。出漁前に飲み騒ぐ漁師たち。

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■よくある質問(FAQ)
Q1. 北洋漁業とは何か?
おおむね北緯45度以北の太平洋、ベーリング海、オホーツク海等の北洋海域で操業される漁業の総称。サケ・マス、カニ、ニシン、タラ、スケトウダラなどを対象とし、日本の遠洋漁業の中核として発展した。
Q2. 函館市北洋資料館はどこにあるのか?
北海道函館市五稜郭町37番8号、五稜郭タワーや北海道立函館美術館に近接する場所にある。1982年に開館し、北洋漁業の歴史を写真・模型・漁具・映像などで展示している(函館市公式サイト)。
Q3. 200海里時代とは何を指すのか?
1977年に米国・ソ連をはじめカナダ、欧州共同体(EC)諸国などが沿岸200海里内の漁業に関する排他的な管轄権を主張し、200海里漁業水域を設定したことで到来した時代。日本の遠洋漁業は漁場からの撤退や操業規模の縮小を余儀なくされた(水産庁資料)。
■ 参考サイト
・明治38年(1905)9月|日露講和条約(ポーツマス条約)(国立公文書館)
(本校のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
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この記事を書いた人
杉山大志キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
【学歴】
1991年 東京大学 理学部物理学科卒業
1993年 東京大学大学院 工学研究科物理工学修士了
【職歴】
1993年~2017年 財団法人 電力中央研究所
1995年~1997年 国際応用システム解析研究所(IIASA)研究員
2017年~2018年 一般財団法人キヤノングローバル戦略研究所 上席研究員
2019年~ 一般財団法人キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹
2019年~ 慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科 特任教授

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