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.国際,.政治  投稿日:2026/8/19

アメリカ製の日本国憲法の最大欠陥とは


執筆者:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」1097回

■本稿のポイント

・日本国憲法は19462月、GHQ民政局ケーディス陸軍大佐を責任者とする20数人の米軍将校が10日間ほどで一気に作成した草案がそのまま日本政府に渡されたもの。日本人は1人も関与しなかった。
 
・筆者が1981年にインタビューしたケーディス氏は、憲法作成の最大の狙いを「日本を永久に非武装にしておくことでした」と明言。日本の再軍備防止こそが憲法の集約たる9条の本質だった。
 
・「日本の永久の非武装」という一切の自衛力・防衛力・軍事力を保持しない設計は世界に類例のない異端であり、作成から80年経った今も一言一句変わっていない。 

戦後80年を経てもなお、日本国憲法は起草当時の異端の設計を維持し続けている。GHQによるわずか10日間での強行起草という歴史的事実、そして起草責任者が語った「永久非武装」という本来の狙い。本稿では、ジャーナリスト古森義久氏が当時の証言記録をもとに、日本が自国の安全保障を自縄自縛してきた憲法の「異端の出自」とその実態を紐解く。

◆なぜ今、日本国憲法の「異端の出自」を伝える必要があるのか

日本にとっての国際安全保障の環境がまた数段と険悪になってきた。いまこそ日本は自国の国益や国民の福祉を自ら守るための国家安全保障という最大課題に正面から取り組まねばならない国難に面したといえる。自国のあり方について「平和こそ」とか「戦争を禁じる」と日本国内でいくら叫んでも実効はない。なぜなら平和も戦争も日本の外部の他国が意図で起きるからだ。日本国内の情緒的な叫びが中国やロシア、北朝鮮の対日戦略を動かすことはできないのだ。

 日本の国家安全保障といえば、最も切迫した課題は日本国憲法である。いまの日本の憲法は自国の安全保障への実効策を禁止する、つまり日本自身の国家の防衛を禁じるところから出発した異端の自縄自縛の文書なのである。その実態をいままた改めて伝えたい。

私には日本国憲法草案作成の実務責任者だったチャールズ・ケーディス氏に直接に会って、その作成の実情を詳しく聞いた体験がある。その長大な記録を保持している。ケーディス氏へのインタビューではその憲法案がきわめて異様な状況下に拙速かつ粗雑に書かれ、しかも戦後の日本の独立国家としての基本的な権利をも抑えるという意図だったことを詳細に聞いた。憲法作成のアメリカ側の当事者に直接、その実情を聞いた日本人はいまやきわめて少ないだろう。歴史の証人を気取る気持ちはまったくないが、憲法の改正が多数派の日本国民にとっても現実の課題となってきた現在、その異端な憲法の異様な出自を詳しく知らせる意義は大きいと思う。

◆マッカーサーはなぜ急遽アメリカ側で憲法を作らせたのか

 日本国憲法はアメリカ占領軍司令部により1946年2月に作成された。その草案はそっくりそのまま日本政府に渡され、国会を経て、日本国憲法となった。当時の日本の占領主体は「連合国軍」と公式には呼ばれたが、実際には米軍だった。その総司令部(GHQ)も米軍の最高司令官、つまりダグラス・マッカーサー元帥の指揮下にあった。

 GHQは終戦からまだ半年のその時期に急遽、日本の憲法案を作成した。「急遽」というのはマッカーサー司令官は当初、日本の新憲法を日本側に自主的に書かせることを指示していたが、その草案ができあがったのをみて、不満足と断じ、急にアメリカ側が作るという決断を下したからだった。

 草案の実際の作成はGHQの民政局に下命された。民政局の局長はコートニー・ホイットニー米陸軍准将だった。そのすぐ下の次長が陸軍大佐のチャールズ・ケーディス氏だったのである。戦前からアメリカ国内で弁護士として活動していた法律専門家のケーディス氏を責任者とする憲法起草班がすぐ組織された。法務体験者を中心とする20数人の米軍将校たちが主体だった。日本人は1人もいなかった。憲法起草班は1946年2月3日からの10日間ほどで一気に草案を書きあげた。作業の場所は皇居に近い第一生命ビルだった。

 憲法起草班ではケーディス陸軍大佐、マイロ・ラウエル陸軍中佐、アルフレッド・ハッシー海軍中佐の3人が憲法前文を書いた。憲法全体でほぼ各章ごとに8つの小委員会を作り、法務経験のあるアメリカ軍人がそれぞれの小委員会の責任者となり執筆した。新憲法の最大特徴である「戦争の禁止」や「戦力の不保持」を決めた第9条のある第2章はケーディス大佐自身が書いたという。

ケーディス氏は1906年、ニューヨーク生まれ、コーネル大学卒業後にハーバード大学法科大学院を修了して、1931年にはすでにアメリカの弁護士となっていた。連邦政府の法律専門官として働く間に第2次大戦が起きて、陸軍に入った。陸軍参謀本部に勤務後、フランス戦線に従軍した。そして1945年8月の日本の降伏後すぐに東京に赴任して、GHQ勤務となったわけだ。日本憲法起草当時すでに39歳、法務一般でも十分に経験を積んだ法律家ではあった。

◆ケーディス氏はインタビューで何を語ったのか

それから35年後の1981年4月、私はケーディス氏にニューヨークの法律事務所で面会し、4時間近くを費やして、日本憲法作成の実態について質問した。どの問いにも活発で詳細な答えが返ってきた。往時の資料を事前に準備してくれたの率直な回顧に思えた。この時点で75歳だったケーディス氏は「もう一切の守秘義務はないから」と注釈してくれた。

 ではアメリカ側によるこの日本国の新憲法の最大の狙いはなんだったのか。私の質問ケーディス氏は淡々と答えた。

 「日本を永久に非武装にしておくことでした」

 日本には独自の軍隊も戦力も持たせないでおくことこそアメリカ側の最大の目的だった、というのである。その集約が憲法9条だったのだ。日本の強大な軍事力と4年近くも戦い、多大な犠牲をも払ってやっとのことに勝利をおさめた当時のアメリカにとっては軍事強国の日本の再登場の防止こそごく当然の願望だったわけだ。

 ケーディス氏はその狙いが後にマッカーサー・ノートと呼ばれた上司からの簡単な文書に明記されていたことをも語った。ただしその文書には「日本自身の安全保障のための戦争や軍備も禁じる」という一項があったものの、ケーディス氏自身が国家が自衛を禁じたのでは国家ではなくなると判断し、あえて挿入はしなかったのだという。同氏のその独自の判断は後に上司たちも黙認したという。

◆世界に類例なき「永久の非武装」という異端はどう続いているのか

だが最大の要点はこの憲法全体があくまで日本の永久の非武装を意図していたという事実だった。「日本の永久の非武装」という要求こそが日本の憲法の最大の特徴だったのである。だから「自衛隊は憲法違反だ」とする解釈が日本の一部の学者たちから出てくることも、それなりに論拠があるともいえるかもしれない。

 しかし世界の現在をみても、歴史をみても、一切の自衛力、防衛力、軍事力を保持してはならないことをみずからに課する国家は存在しないといえよう。日本国憲法というのはそんな異端や異様を最大の特徴とする文書だったのである。そしてその文書は作成からちょうど80年の現在も一言一句、変わっていないのだ。

【よくある質問(FAQ)】

Q1. チャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)とはどんな人物か?
 A. 1906年ニューヨーク生まれの弁護士・米陸軍将校(1996年没)。コーネル大学卒業後、ハーバード大学法科大学院を修了し、1931年に弁護士登録。米連邦政府の法律専門官を経て、第2次世界大戦で陸軍に入隊。GHQ民政局次長(陸軍大佐)として日本国憲法草案作成の実務責任者を務めた。憲法9条を含む第2章の起草を自ら担当したことでも知られる。

Q2. マッカーサー・ノートとは何か?
 A. 1946年2月3日、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がホイットニー民政局長に憲法草案作成を指示した際に手渡した3項目のメモ(マッカーサー3原則)。①天皇は国家の元首、②戦争の放棄と軍備の廃止、③封建制度の廃止、を要点とする。草案作成の基本方針を示した最重要文書で、憲法9条の直接の起源となった。

Q3. GHQ民政局(Government Section, GS)とは何か?
 A. 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)内の主要部局の一つ。政治・行政・法制度改革を担当し、日本国憲法草案作成、公職追放、地方自治法などの制定を主導した。局長はコートニー・ホイットニー准将(後に少将)、次長はチャールズ・ケーディス大佐。約20〜25名の陸海軍将校・文官で構成された。

Q4. 憲法9条とはどのような条文か?
 A. 日本国憲法第9条は、第1項で「戦争の放棄」(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する)、第2項で「戦力の不保持と交戦権の否認」(前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない)を定める条項。1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行されて以来、80年間一度も改正されていない。

Q5. 「マッカーサー草案」を受け取った当時の日本政府はどう対応したのか?
 A. 1946年2月13日、GHQは吉田茂外相・松本烝治国務相らに草案を提示した。日本側は自主的に「憲法問題調査委員会(松本委員会)」で「松本試案」を作成中だったが、天皇制の存続を最優先とする幣原喜重郎内閣は、GHQ草案の受け入れを決断。3月6日に「憲法改正草案要綱」として発表し、その後国会審議を経て1946年11月3日に公布された。

(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)

トップ写真:Douglas MacArthur in Tokyo
出典:Bettmann / 寄稿者 / GettyImages




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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