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.政治  投稿日:2026/8/7

8月の「平和」合唱の欠陥、ふたたび


執筆者:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

古森義久の内外透視」1094回

【本稿のポイント】

・日本の8月の「平和合唱」は、原爆投下や終戦記念日を機に「戦争がなければ平和」という言葉だけが繰り返されるが、平和の中身(自由・独立・人権)や自衛の是非を具体的に論じない空虚なものになっている。

・米国やヨーロッパ諸国、あるいはかつてのベトナムの独立闘争などの例を見ると、真の平和とは単なる軍事衝突の不在ではなく、自由・独立・人権を伴うものだという認識が国際的には共有されている。

・平和は本質的に他国との関係性の問題であり、自国防衛の意思と能力(抑止力)を欠いたまま国内で「平和」を唱えるだけでは、外部からの侵略を防げず、結果的に「奴隷の平和」に陥りかねない。

8月6日は広島への原爆投下の日である。この日には日本にとっての悲惨な国民の被害、そして日本という国家の無惨かな敗北ということで、平和と戦争が語られる。同時に日本という国のあり方までがどうしても深刻な論題となる。

こうした一連の論議でまず表面に出るのは1945年、つまりいまから81年前の8月6日に当時の軍都だった広島に投下された米軍の原子爆弾での日本側の痛ましい惨禍である。そんな大量の死と破壊を二度と起こしてはならない。そのためにはあらゆる戦争や衝突を避けねばならない。そんな悲願から日本にとっての「平和」の重要性が熱をこめて論じられる。

この「平和」という言葉の繰り返しは、この8月にとくに顕著な現象だから「8月の平和論」とか「8月の平和主義」と呼べるかもしれない。だが一瞬でも立ち止まって、その言葉の内容を考えると、そこには「論」とも「主義」とも呼べる基盤は感じられない。ただ言葉だけが広がる合唱のようなのだ。

だが平和に徹し、いかなる戦争も紛争も避けるという場合、日本に対する外部からの武力攻撃にも一切、反撃してはならないのか、日本が自己の国民や国家を自衛するための武力抵抗も「絶対の平和」の名の下に試みてはならないことになる。毎年8月の日本での平和合唱ではそのあたりを明確には語らない。

だが絶対の平和の名の下に一つの国家が外部からの侵略や攻撃に対しても、一切、抵抗しないと宣言した場合、その国家はすでに独立でも自立でも主権を持つ国家ではなくなるだろう。他国からの攻撃や威嚇にすぐに屈服する国家は自立国家でも独立国家でもない。単なる人間の集団に過ぎないことになる。だから日本での毎年8月の平和への合唱は日本の国家たる主基盤をも否定する呼び声のようにも聞こえてくるのだ。

日本での8月の平和合唱というのは6日の広島への原爆投下、さらには9日の長崎への核兵器の攻撃、さらには15日のポツダム宣言受け入れ、つまり事実上の全面降伏という日本にとっての痛ましい記念日の重なりで盛り上がる。基本のメッセージは「人間集団にとって、さらに国家にとって平和に勝る理想の状態はない」とする平和絶対論である。同時に「戦争はいかなる場合でも避けねばならない」という戦争全面否定となる。

ところが全世界の他の諸国はそんな絶対の平和論を採用はしていない。まず平和を単に戦争のない状態としては定義づけていないのだ。アメリカの実例をみれば、自国にとって重要な状態は「自由をともなう平和」ということになる。平和を単に戦争のない状態と定義づけるならば、他国に占領された植民地でも平和である。だがその平和は奴隷の平和だろう。

アメリカの場合、自由というのは国家としての自由であるとともに、国民個人個人にとっての自由をも最低条件とする。たとえ戦争がなくても個人の自由がなければ、それは好ましい平和の状態ではない、ということになる。

オバマ大統領も2009年のノーベル平和賞の受賞で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳が欠かせない」と述べていた。

ヨーロッパの諸国も同様だった。私は新聞記者として東西冷戦中にいわゆる西側とされた自由民主主義のイギリスやフランス、西ドイツなどを訪れ、各国の基本的な防衛政策を調べたことがある。それら諸国はみな国防白書などで「自由、独立、人権尊重を伴う平和」こそが真の平和だと明記していた。自由や独立を伴わない平和は真の平和ではない、という基本認識が確立されていたのだ。

さらに古い話だが、半世紀前に終わったベトナム戦争でも、革命闘争を主導したホー・チ・ミン主席は「独立と自由より貴重なものはない」と繰り返し明言していた。国家や民族としての独立や自由のためには平和を犠牲にしても闘うという決意だった。つまり単に軍事衝突がないという平和は植民地支配がある限り、断固として排するという意味だった。

だがわが日本の8月の平和論では平和の内容や質はまったく語られない。戦争さえなければ、万事めでたし、というふうなのだ。平和のあるべき姿をまったく論じないのだ。まず平和とはなにか、その平和をどうやって守るのか、という議論がまったく欠けている。「戦争」をすべて否定すれば、日本自身の防衛も放棄するのか。そもそも「戦争」をどう防ぐのか、という議論もない。だから日本の8月の平和合唱は降伏論、無抵抗論に等しい。

外国に占領された日本でも平和でありさえすればよいのか。外国が侵略してきても、戦争をすべて禁じれば、自衛という概念は吹き飛び、外国に支配された「奴隷の平和」となる。8月の日本では「平和」という言葉に呪縛され、自国のあり方にも世界の現実にも目を閉じているようなのだ。

8月の日本の各種「平和の儀式」では小学生にまで「平和が絶対に大切です」と語らせる。その場合の平和とは単に戦争や軍事衝突がない、という状態を意味している。「平和」という状態の内容をまったく語らないからだ。この姿勢は平和という言葉の呪縛にかかり、自国の安全保障を考えないという思考停止に陥っているといえる。この「平和論」をいまのウクライナにぶつけたらどうなるか。戦争を止めれば、ロシアに全面占領されるだろう。

世界のどの国もウクライナのように自国防衛の軍事的な能力や意思は明確に保っている。他国が自国に軍事攻撃をかけてくれば、必ず反撃して、その相手にも手痛い損害を与えるという構えである。その構えがあれば、攻撃を考える潜在敵国は自国への被害の程度を考えて、実際の攻撃を止めてしまう。この相関関係が抑止である。その抑止の姿勢が他国からの軍事攻勢を抑え、平和を保持できる、という思考なのだ。

一方、日本の国内で日本人が集まり、ただ言葉の上で、「平和」と叫び続けても、日本国の平和が守られる保証にはならない。そもそも平和とは日本と外部世界との関係の状態なのだ。国際的な関係なのである。日本国内の状態ではない。日本の平和が崩されるのは日本の外部からの動きによるのだ。日本がいくら平和を求めても、それを崩すのは日本の外の勢力なのだ。だから日本への侵略を考える他国の考えこそが決定的な要素となる。つまり、日本の内部だけで「平和」を唱え続けても、実効はないということだ。

8月に入って、「平和」という言葉に包まれる中で、以上のような現実を考えてみることも欠かせないだろう。

#この記事は日本戦略研究フォーラムのサイトに掲載された古森義久氏の寄稿論文の転載です。

トップ写真:広島平和記念公園で行われた広島原爆投下81周年記念式典で、演説に先立ち頭を下げる高市早苗首相 2026年8月6日 日本・広島

出典:Photo by Tomohiro Ohsumi/Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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