辺野古事故はなぜ起きたのか(上)
目黒 博(ジャーナリスト)
【本稿のポイント】
・辺野古反対派「オール沖縄」のガバナンスの「ゆるさ」ゆえに、一部活動家の暴走が放置され、就学旅行中の高校生が死亡事故に巻き込まれた。
・安倍政権の高圧的な沖縄政策に対し、本土の記者とリベラル系文化人たちは、沖縄に対する「罪悪感」を抱いて、反辺野古運動を支持し、活動家集団を英雄視した。
・主流メディアと文化人たちは、辺野古区(集落)の事情や、複雑な沖縄県民感情を認識しないまま、単純化された「沖縄観」を発信する傾向がある。
研修旅行で辺野古を訪れた同志社国際高校の生徒たちは、抗議活動団体が運営するボートに乗り、転覆事故に遭遇する。その結果、高校生1名と船長1名が死亡した。
この事故については、さまざまな報道がなされてきた。しかし、事故を発生させるに至った沖縄の政治社会状況に関しては、ほとんど言及がなかったように思われる。
そこで、このシリーズ記事(上)では、これまでメディアや有識者が触れてこなかった事故発生の背景を考える。特に、事故の責任を直接負う「ヘリ基地反対協議会」と、この団体が参加する「オール沖縄」の構造的な問題、安倍政権の「強権的」な沖縄政策の影響、本土のメディアやリベラル系有名人たちの「沖縄観」などに焦点を当てる。
なお、死亡した高校生の遺族による問題提起の意義、文科省の見解、平和学習と基地問題の関係、知事を含む政治家や政党、有識者たちの事故への反応などについては、本シリーズ(下)で述べることにする。
<活動家集団と辺野古コミュニティの間で、なぜ対話・交流が成立しないのか>
海兵隊普天間飛行場の辺野古への移設工事に反対する、「オール沖縄」勢力の中核的な組織は、「オール沖縄会議」(注)である。辺野古における「現地闘争」を担ってきたのは、この「会議」に参加する「ヘリ基地反対協議会」や「沖縄平和運動センター」などの活動家集団だ。
(注) 「オール沖縄」は組織ではなく、辺野古に反対する人々の総称である。一方、「オール沖縄会議」は、共同代表4名と事務局長を擁する組織である。
活動家たちは、激しい「肉弾戦」を展開してきた。たとえば、抗議船やカヌーに乗って工事現場海域へ侵入して工事を妨害して、海上保安官と格闘する。あるいは、基地ゲート前や道路上で、工事用土砂を運搬する車両の前に座り込んだり、寝転がったり、故意にゆっくり歩く「牛歩」を行い、車両の通行を妨害する、などだ。
「座り込み(寝転がり)」や「牛歩」により、生活道路が通行止めになることがある。漁港や歩道に設置された活動拠点のテント村は、しかるべき許可を得ていない。地元住民は迷惑し、抗議するが、活動家たちは意に介さない。そこには、「正義」のためには「迷惑」など小さなことだ、という活動家独特のメンタリティが見える。
辺野古区(集落)の区長や「穏健な」反対派住民のリーダーたちは、活動家集団との対話を試みるが、拒否された。
活動家たちは、反権力闘争という「自らの生き方」を実践するために、県内各地、さらには日本本土からやって来た人たちである。「沖縄のために」と唱えるが、真の目的は、「闘争する」ことだ。地元住民と対話する気は、もともとない。

辺野古テント村 撮影:筆者
「オール沖縄」の有力者は、共産党、社民党、労働組合の関係者が多い。辺野古での「実力行動」を担う活動家たちも同様であったため、「オール沖縄」の指導層と、現地の活動家グループのパイプは太い。
ところが、辺野古区内の反対派住民は、穏健派が多く、「決死隊」のような運動スタイルにはなじめない。「オール沖縄」支持者でありながら、座り込みなどに参加しないため、同勢力の有力者たちから軽視された。
辺野古区は、海兵隊基地「キャンプ・シュワブ」を受け入れ、平和共存してきた歴史を持つ。現地住民との接点がほとんどなかった「オール沖縄」指導層の目には、辺野古住民は「保守的で基地容認派」と映ったのであろう。
辺野古の施設が完成後に最も影響を受けるのは、辺野古コミュニティである。「地元の民意」を掲げた「オール沖縄」が、「地元中の地元」の辺野古集落に関心を持たなかったことは、この勢力の矛盾を示すものだ。
<「オール沖縄」のガバナンスはなぜゆるいのか>
なぜ、地元住民が顔をしかめるような、過激な運動スタイルが許されてきたのだろうか。まず、「オール沖縄」のガバナンスの「ゆるさ」を挙げなければならない。
「オール沖縄」は、保守系の大物、故翁長雄志知事が中心となって成立した勢力である。強引に辺野古移設を進めようとする安倍政権(第2期)に対し、故翁長氏は「腹八分腹六分」を提唱して、保革を超えて、幅広い県民の結集を呼びかける。その成立経緯から、「オール沖縄」には、さまざまな立場の人々が、「勝手連」的に加わった。
たとえば、この勢力には、日米安保条約に反対し、すべての米軍基地の撤去を目指す、共産党や社民党、新左翼系などが参加した。同時に、辺野古移設には反対だが、日米安保を認め、米軍基地の存在を容認する、保守系や経済人も加わる。
「オール沖縄」系のリーダーたちは、運動の理念や方法について踏み込んだ議論を避けた。この勢力には、あまりにも政治理念と体質の異なる、雑多な組織や人々が参加しているため、違いを突き詰めれば、空中分解しかねないからだ。
活動を指導・調整する司令塔は存在しなかった。具体的な運動の方法は、各組織やグループに委ねられ、独善的な「左派強硬派」の活動も黙認される。
活動内容に関する「情報共有」も十分なされなかった。その典型が「ヘリ基地反対協議会」内の幹部たちと、この団体に属する「海上行動チーム」との関係である。
事故当日(3月16日)夜の記者会見に臨んだ幹部5人は、「海上行動チーム」の活動の詳細を知らされていなかった。そのため、「なぜ、波浪注意報が出ていた日に船を出すことになったのか」と会見で問われたが、答えられなかった。
<沖縄では、安倍政権の強硬な姿勢への反発が根強く、辺野古反対運動は徐々に後退しつつも、継続してきた>
海兵隊普天間飛行場の辺野古への移設を強引に進めた安倍第2期政権(2012~2020年)に、県民の多くが憤慨した。とりわけ、政権内で基地問題を担当した菅義偉官房長官(当時)は、凄惨な沖縄戦を経験した県民への配慮を見せず、「粛々と」辺野古移設の手続きを進めていく。

沖縄本島と辺野古区(上の青い丸) 出典:沖縄県HP
ただし、この施設は、滑走路が短く、海兵隊にとっては使いにくいものだ。軟弱地盤を含む90mに及ぶ深い海を埋め立てるため、完成の目処も不明確な難工事になっている。沖縄県の試算では、総工事費は2兆5,000億円を超えるという(沖縄県HP、2019年5月14日)。巨大な埋め立て利権がからんだことは、公然の秘密であった。
大きな矛盾を孕んだ計画ではあったが、翁長知事(当時)は具体的な代替案を提案できず、政府の糾弾に終始する。そのためもあり、沖縄県と日本政府の間の、辺野古崎の「埋め立て」めぐる裁判は、すべて県の敗訴で決着する。工事は大幅に遅れながらも進行し、反対運動は手詰まりになった。
裁判での敗北に加え、1996年ごろからの長期にわたる運動になったことで、辺野古移設に反対する熱気が冷め、県民の関心は基地より生活の苦しさに移っていく。
それでも、多くの県民の間に、政府が進める辺野古工事に不満がくすぶり続ける。現実に、各種世論調査では、常に反対が賛成を大きく上回っている。
(注) 世論調査の傾向と推移については、熊本博之・田辺俊介編著『復帰50年の沖縄世論』(筑摩選書、2025年6月)が詳しい。
県民が抱く政府に対する根強い不信は、大型選挙の結果に現れる。知事選では、「オール沖縄」は3連勝し、国政選挙でも善戦する。「辺野古」を争点にすることで一定の票を獲得できる状態が続き、辺野古反対運動を後押しした。
<政治家や有名人だけでなく、メディア関係者も「抗議船」に乗り、工事現場を「視察・取材」した>
今回の事故で問題となった「抗議船」に、革新系・リベラル系の政治家や有名人、さらにNHK以外のメディア関係者が乗り、辺野古工事の現場を「視察・取材」した。
ボートに乗って現場の海域に行けば、工事の生々しい「風景」を見る(撮影する)ことができる。それだけに、抗議船に乗ることは、政治家や有名人だけでなく、記者たちにとっても、貴重な機会となると受けとめられた。
ただし、乗船中に、船長などの活動家の「解説」を聴くことになり、「辺野古問題」に関する考え方や報道内容に大きな影響を与えたと見られる。「抗議船」は、「ヘリ基地反対協」、そして「オール沖縄」の「広報活動」のツールになった。結果として、活動家たちの強硬路線は正当化される。
同志社国際高校の校長や教員たちが、「ヘリ基地反対協」の「生徒をボートに乗せる」提案に同意したことが問題になっている。しかし、リベラル系有名人たち(故大江健三郎氏、故坂本隆一氏、津田大介氏など)も乗っており、高校関係者が、「抗議船」に生徒を乗せることに、特段問題を感じなかったのかもしれない。
<なぜメディアは辺野古における「命がけの運動」を称賛するのか>
本土メディアの多くは、「実力闘争派」を沖縄県民の代表のように扱い、英雄視した。その背景には、日本本土人が沖縄に対して抱く「後ろめたさ」があると思われる。
日本政府による琉球王国の解体と併合(琉球処分、1879年)、沖縄県民の約4分の1が死亡した沖縄戦、敗戦後27年に及ぶ米軍による統治、1972年の沖縄の本土復帰(沖縄返還)後も、存続した巨大な米軍基地。
日本政府による沖縄の「不当な」扱いを知れば知るほど、本土の記者たちの多くは沖縄に対して「申し訳ない」と感じ、「沖縄に寄り添わねば」と思う。そして、強大な権力に立ち向かう、活動家たちの「体を張った」行動を持ち上げる。
つまり、沖縄に対する本土人の「負い目」と、辺野古反対運動の称賛は表裏一体なのだ。そして、座り込みや海上での抗議活動は、「沖縄基地問題」、特に「辺野古問題」の象徴となる。大規模集会を除けば、激しい実力闘争の映像は、対立を直接表現する「分かりやすい」メッセージになった。
辺野古問題は複雑である。辺野古の住民たちは、さまざまな政治や利権の思惑、イデオロギーのぶつかり合いを経験してきた。また、姻戚関係がからみ、濃密な人間関係が支配するコミュニティの中では噂が立ちやすいので、本音を言いよどむ人もいる。
たとえば、「容認」の裏に、くやしさがこもるケースもある。選挙では「容認」の保守系に投票した人が、世論調査で「辺野古反対」と答えることは珍しくない。反対とも容認とも決めかねる人もいる。また、地元の反対派の中に、活動家に反発する人が多いが、「私たちの代わりに頑張っている」と感謝する人もいる。
ただし、このような感情は流動的でもある。このような状況をしっかり把握するのは容易でないし、把握できたとしても、短い記事やニュースに盛り込むのは難しい。分かりやすく、目を引く内容にしようとすれば、単純化することになる。特に、安倍政権の「強面」の対沖縄方針もあり、政府=悪、辺野古反対派=善という図式に落ち着くのだ。
現地事情を踏まえない報道は多い。辺野古区内の分断や、活動家たちと辺野古住民との間の冷たい関係をほとんど報道せず、活動家たちを、あたかも「辺野古住民」であるかのように描く記事まで登場する。たとえば、ある著名なジャーナリストは、活動家たちの運動を「住民運動」と呼んでいる(『琉球新報』2026年5月5日)。
つまり、沖縄の基地問題に関する報道は、反対運動に近い論調になり、辺野古区の住民感情より、活動家を取り上げるパターンが定着した。一方、過激なグループを「プロ市民」と軽蔑する保守系のライターたちは、「上から目線」の安倍政権に対する県民の不信には触れず、沖縄では広範な支持は得られなかった。
辺野古の問題は、極端に政治化し、対立が激しくなったため、異なる立場の人々の間の対話は成り立たっていないが、メディアは、その事実も報道してこなかったのではなかろうか。今回の事故によって、メディアは重い宿題を課せられた。
(下)に続く
トップ写真) 辺野古事故で救助活動中の潜水夫 提供:第11管区海上保安本部
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この記事を書いた人
目黒博ジャーナリスト
1947年生まれ。東京大学経済学部(都市問題)卒業後、横浜市勤務。退職後、塾講師を経て米国インディアナ大学に留学(大学院修士課程卒)。NHK情報ネットワーク(現NHKグローバルメディアサービス)勤務(NHK職員向けオフレコ・セミナー「国際情勢」・「メディア論」を担当)、名古屋外国語大学現代国際学部教授(担当科目:近現代の外交、日本外交とアジア、英文日本事情)、法政大学沖縄文化研究所国内研究員などを歴任。主な関心分野:沖縄の「基地問題」と政治・社会、外交・安全保障、日本の教育、メディア・リテラシーなど。

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