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スポーツ  投稿日:2016/4/3

「知ること」と「わかること」の違い


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

うちのとある社員は、会話の8割が陸上に関することで、ずっとどうすれば速く走れるかということを話している。その社員が股関節周辺を固めて着地するという感覚について話しをしてきた。どうも彼にとって発見だったようでとても興奮していた。

私は比較的長く陸上競技をしていたから、その感覚がおそらくあれだろうなというのはなんとなくわかった。陸上競技の本を読めばそれについて書かれたものもあるだろうと思う。けれども、いくらそれを彼が読んでいたとしても(読んでいるだろうが)この発見は彼にとって“初めての発見”であり、その喜びはとてもよくわかる。

知っていること(ここでは浅めの意味での知っているとして使う)と、わかることの間は本当に離れている。タロイモという食べ物がカリブの方にあるが、言葉ではいくらでもなになにに似ていてと言えるが、実際に食べた後では全くリアリティが違う。

喉が乾いたという言葉は誰でも言えるが、砂漠の真ん中で三日さまよった時にいう喉が渇いたと、東京の道を歩いていて喉が渇いたは全く違う。喉が乾いた感覚はわかっていても、死ぬほど渇いている感覚はわからない人が多い。

ところが、この「知っている」と「わかった」の間がわからない人がいる。こういった人の世界はのっぺりとしていて、どこかで聞いた知識と自分で考えて辿り着いた知識の違いがわからず、知ることがわかることだと思っている。ところが知っているだけではできないことがほとんどだから、やってもうまくできない。

普通はそこでハッと気づいて自分はもしかしてわかっていなかったかもしれないと感じるのだが、それすら感じられない人は何か別の理由をつけてずっとわかったつもりで下の方をぐるぐる回り続ける。周囲からはわかっていないのが透けて見えているが、本人だけが気づいていない。

世の中を探せば誰かがすでに考えていることだらけで、新しい発見なんてそうそうない。だからといって、自分が発見をしてはならないわけではない。確かに過去の話が刺激になって自分が新しい理解を深めるかもしれないが、それは自分自身の発見ではない。過去のスプリント理論を私は知ってはいるが、30年経った今でもああわかったつもりだっただけで、本当はもっと深い意味があったと感じることがある。矛盾するようだがわかることには終わりがない。発見はいつも自分ごとで、そして自分にとっての喜びがある。

自分の頭で考えて発見することは、それを知識で知っていることとは全く質が違う。私は人生の喜びは好奇心に掻き立てられ発見していくことだと思っている。見る人から見れば、田舎のオヤジがiPhoneをみんなに見せて、いいかSiriてのがあってな、、と語っているようなものかもしれないが、それも微笑ましいと思っている。

どうせ人生は釈迦の掌で右往左往しているようなものだ。だから、外からどう見えているか、そんなことはどうでもよくて、自分の頭が好奇心でいっぱいになることが目的なのだ。発見する喜びがない人は、愚かさを受容できない人でもある。

(為末大氏 HPより)



この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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