商社マンからスポーツ心理博士へ セカンドキャリア番外編
神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
セカンドキャリアへ踏み出すことは、何も現職の継続が厳しくなった時と限ったことではない。
働き盛り。
しかも「その時の仕事もメチャクチャ面白くて気に入っていた」が、
「自分にしか出来ない仕事がしたかったから、踏み出した」
そんな、破天荒な男がいる。
世界を股にかける商社マンから、心機一転。スポーツ心理博士という新たなフィールドに踏み出した。
布施努、53歳。
スポーツマンから企業戦士まで、多くの人間の“心”、“チーム力”を鍛える新たなビジネスに取り組んでいる。
スポーツ心理博士とは
「この仕事は、単なるメンタルトレーナーではないのです」 布施は言う。
根本的なチーム作りから関わる仕事だ。
チームビルディング、組織パフォーマンス向上、リーダースキルアップなど、幅広い。
大学卒業後、14年間住友商事で働いた後、渡米し、スポーツ心理学の世界的権威であるGould博士に師事し、最先端のスポーツ科学を基礎にチーム・組織作りなどを大学院で学んだ。Gould博士はアメリカ五輪組織、NFLなどで指導している。
布施も、実際プロ・大学からジュニアまでのチーム作り、コンサルティングに携わり帰国。日本でも、慶應義塾大学(以下慶大)体育会硬式野球部、ヨット部やテニス部、筑波大学、Jリーグなどのスポーツチームや、トーマツ、伊藤忠商事等の企業で指導を行っている。
特に、この冬の全国高校ラグビー選手権で、桐蔭学園を準優勝に導き注目された。同校は、前シーズンで10年連続全国大会出場の記録を絶たれ、新チーム作りから、布施を招聘。布施は、新キャプテン作りから取り掛かった。
シャイで、人前で話すことが苦手だった新主将に、
「自分をわからせる→自分をコントロールさせる→チームのキャプテンを演じさせる」
ために、何度も話し合った。その上で、各選手に責任を持たせ、一人ひとり自立させ、自己判断・発信が出来る人間作りを、キャプテンを中心に行った。監督や布施など指導者が入らないミーティングを繰り返させた。各々が精神的に充実し、役割がわかると、プレイでのミスも減り、作戦も自主的に話し合われ、試合中の当事者意識や自己判断力も向上した。
その充実したミーティングぶりは見たものを驚かせている。
布施がチーム作り段階で同校を訪れたのは、月に1度ずつだった。
「僕のようなスポーツ心理学者の仕事は、あくまでその“場をプロデュース”するサポートをすること。そしてチームの監督が、主役でありプロデューサーなのです。勝利はチーム全員でつかみとるもの」と、話す。
すでに、今年のチーム作りにも参画して、新たなゴールを目指している。
東京六大学野球で、法政大に二連勝して好スタートを切った慶大硬式野球部のチーム作りにも携わっている。明大戦では四連戦の死闘を戦い抜き、勝ち点を落としたものの、また、チームを立て直し、調子を上げてきていた東大にはきっちり二連勝。
オフには、慶大内部の他の体育会の人間も交えた話し合いをさせたりもする。「活気溢れた、良いミーティングが出来るのですよ」と、垣根を越えたチーム作りも積極的に取り入れる。
転機
日本でのこのジャンルの第一人者である布施。だが、最初に渡米した時は、
「商社でも関連会社を作るなどエキサイティングな仕事をしていたので、この感じをスポーツというフィールドでも、実践出来ないかと思い立ったのです」
企業人として走り続けた布施は、1998年夏季休暇を取得して、米国に駐在する大学時代の先輩を訪ねた。その先輩が連れて行ってくれたグラウンドに颯爽とブレザー姿で立つ人物がいて、布施が「チームのGMですか?」と、尋ねると
「チームビルディングをしている人間だ」と、先輩が教えてくれた。
そして、 「この仕事は、まだ日本にない。お前に向いているよ。自分にしかできない事をやってみろ」とも。
当時37歳だった布施も「動くなら、今しかない」と、米国でのこの分野でのナンバーワンのノースカロラナ大学グリーンズボロ校を訪ねた。最初は大学院で学びたいなら、日本国内で心理学、スポーツ科学のダブルメジャーが必要と言われた。そのままでは引き下がれない布施は交渉の結果「それに代わるもので、大学院でやっていけることを証明してみなさい」との言葉を引き出した。だが、慶大の文学部出身だった布施が現役時代に学んだことは、ほぼ役に立たなかった。
が、商社での業務の傍ら放送大学を受講し、心理学系の科目ですべてAを取得し再度大学と交渉、修士課程で優秀な成績を取れれば博士課程で受け入れるという条件を引き出すことに成功した。布施は、妻と当時幼稚園年中と1歳だった子供たち全員で渡米した。
「全て自費で賄った訳ですから、駐在員が住むような所ではなく、比較的貧しい地域にしか住めませんでした。子供を地元のサッカーチームに入れようとしても、『あの地域に住む人間を、チームに入れるわけにはいかない』という、雰囲気を感じたこともあった」 貯蓄は目減りしていくし、厳しい時代であった。
それでも、目標に向かって勉強を続け、学んだことを、現地の野球チームなどで、実践していった。試行錯誤だった。ノウハウのフレームワーク、アーカイブ化も出来た。しかし、言葉の問題で壁にぶち当たった。スラングを駆使する選手たちとの深い部分での双方向コミュニケーションは難しかった。そこで博士課程の後半で、将来のフィールドとして日本を視野に入れた。そして、慶大の硬式野球部が、舞台を提供してくれた。
ピンチをチャンスに
桐蔭学園ラグビー部も、10年連続の全国大会出場を逃した時に、声をかけられた。慶應の準硬式野球部からも、同部が春のリーグ戦で東京大学に敗れ、迷走していた時に招聘され、秋のリーグには優勝に導いた。しかも、同チーム部員を、就活でも内定者商社5人、テレビ局2人と、人格形成の面でも寄与することに。
布施の元にやってくるのは、苦しい局面の組織が多い。それは、組織だけでなく、セカンドキャリアを目指す個人も、しかりだ。
「スポーツ心理学のジャンルは、まだまだ仕事として固まっていない。私のところには、スポーツトレーナーやカウンセラーと思ってやって来る人も少なくない」
元プロ野球選手なども、布施の元で学びたいと足を運んで来る。 「彼には、まずはしっかり大学に入り直して、必要な勉強をしてから来なさいと、言ってあります。アントレプランナーとしての力はあるので、後はしっかり学んで行くこと」と、励ます。
学ぶことの重要性を布施が説くのには、訳がある。 アメリカでの博士号取得までの経験もそうだが、常に学ぶことで、自分の人生の局面を乗り越えてきたからだ。
布施は学生時代は、野球に打ち込んでいた。
早稲田実業高校時代は、甲子園で準優勝経験がある。が、そのまま早稲田大学には進まなかった。「何となく、感覚的なもの」としか明かさないが、ライバル校である慶大の野球部を目指した。高校3年生の夏まで野球漬けだったから、必死に勉強した。ほとんどの人間が内部進学する中での受験勉強は、辛かった。持ち前の『何とかなる』の前向きさで、一浪の末、見事慶大入学を果たした。野球部でも活躍し、リーグ無敗優勝でストッキングに2本目の線を入れ、明治神宮大会のタイトルも取った。
布施は常に苦しい時、逆境にある時、前向きに学び、現在の立場を獲得するに至った。
だからこそ、易きに流れる若者には、学びの重要性を説く。言葉の重みは、自らの体験が裏付ける。
セカンドキャリアを踏み出すには、相当な覚悟と努力が必要だとも。(文中敬称略)
【布施 努プロフィール】
(株)Tsutomu FUSE,PhD Sport Psychology Services 代表取締役。 慶應義塾大学スポーツ医学研究センター研究員。NPO法人ライフスキル育成協会代表。
ノースカロライナ大学グリーンズボロ校大学院博士号取得(スポーツ心理学)、スポーツ心理学博士。
最先端のスポーツ心理学を基本にした、組織・チーム作り、パフォーマンス向上などを手掛ける。JR東日本野球部などのスポーツチーム(記事参照)、トーマツ、伊藤忠商事などの企業で幅広く、組織作りの指導を行っている。
著書「勝ち続ける組織の法則」(ゴルフダイジェスト社)、「ホイッスル!勝利学」(集英社)、「スポーツ精神医学」(診断と治療社・分担執筆)、「実践例から学ぶ競技力アップのスポーツカウンセリング」(大修館書店・共訳)
トップ画像:布施の斬新な講義に、選手たちも熱心に耳を傾ける。©神津伸子
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この記事を書いた人
神津伸子ジャーナリスト・元産経新聞記者
1983年慶應義塾大学文学部卒業。同年4月シャープ株式会社入社東京広報室勤務。1987年2月産経新聞社入社。多摩支局、社会部、文化部取材記者として活動。警視庁方面担当、遊軍、気象庁記者クラブ、演劇記者会などに所属。1994年にカナダ・トロントに移り住む。フリーランスとして独立。朝日新聞出版「AERA」にて「女子アイスホッケー・スマイルJAPAN」「CAP女子増殖中」「アイスホッケー日本女子ソチ五輪代表床亜矢可選手インタビュー」「SAYONARA国立競技場}」など取材・執筆