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スポーツ  投稿日:2021/3/20

コロナ解雇、それでも前へ!ジャンプ内藤智文選手


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

【まとめ】

・コロナ不況で所属先解雇となったスキージャンパー内藤智文選手、プロに転向。

・経済環境、練習環境とも厳しい中、競技活動を続ける。

・「選手生活で初めて目指す五輪」と北京五輪を目標に掲げる。

 

東京五輪開催問題が世間を賑わしているが、来年は、北京冬季五輪が控える。ウィンタースポーツの選手たちは、既にそこをターゲットに今季を闘い抜いている。スキーシーズンもラストを迎える。

国内のジャンプ競技の最終戦は、20日の伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会となる。内藤智文選手も「北京五輪が今の自分の目標です」と、北海道・大倉山シャンツェでの大飛躍を目指す。

突然の呼び出し、残酷な告知。余儀なくされたプロへの転向

今シーズンイン間際の出来事だった。以前の所属先の茨城県の金属加工会社の社長から、いきなり会議室に呼び出された。

「実は…」

内藤がその場で告げられたのは、解雇の二文字だった。

彼には何の責任もなかった。勤め先が、ご多分に漏れずコロナ渦で苦境に追い込まれていたのだった。頭の中が真っ白になった。「約束していた国体で優勝を果たし、選手として脂も乗って来て、さあこれからと思っていた」矢先の話だった。

その会議室は、普段は接客にも使われていた。

内藤の活躍を告げる新聞などが、客の目につくように華々しく飾られている。記事が虚しく、内藤の目に映った。

以降、正社員としての採用が無いまま、新しい仕事を探している。失業保険を受け取るためにハローワークに通いながら、競技生活を続けている。試合が続く北海道から茨城のハローワークまでは、片道14時間かかる道のりだ。社会人3、4年の時には茨城県とも契約を交わしていたが、その後は更新されていない。

やむなくプロジャンパーとして転身し、自らスポンサー探しに奔走する事が必要となった。その成果が実を結び、最近も日本工装株式会社と契約を結び、胸に新しいエンブレムが増えた。

▲写真 新しいスポンサーのロゴが入ったトレーニングウェア姿の内藤選手:本人提供

平昌冬季五輪が、夢を変えた

内藤が五輪出場を意識するようになったのには、訳があった。
よくスポーツ選手は、子供の頃の作文や卒業文集などに「ボクの、ワタシの夢は、オリンピック選手になることです」と、夢を綴っている。

が、内藤は小学校1年生からジャンプ競技に取り組んでいるにもかかわらず、「つい数年前までは、五輪出場など意識した事がなかった」という。ところが、3年前の韓国・平昌冬季五輪が大きく彼の意識を変える事になった。

内藤は平昌で、選手たちが飛ぶ前のテストジャンパーに選ばれた。本戦が始まる前に20数名がコンディション確認などのために飛ばなければならない。

が、当時の韓国のジャンプ人口は少なく、近隣諸国にもその役割が出来る人材を求めた。日本からも内藤らに白羽の矢が立った。「有無を言わさず、メンバーの中に組み込まれてしまった感じでしたが」と、若きジャンパーは振り返って、笑う。

何と、この時のテスト飛行で、内藤は本戦に出場したどの日本選手よりも、遠くへ飛んだのだった。大きく内藤の目標は変わって行った。

桐朋の価値が、子供だったので当時はよくわかっていなかった

内藤の出身は東京・調布。スキージャンプを始める環境ではなかった。

1998年、まだ幼稚園児だった内藤は、両親、兄・和大氏、と共に長野五輪に出かけた。男子ジャンプ・ラージヒル団体を観戦した。前大会のリレハンメルの雪辱を果たし、金メダルを獲得した試合だ。原田雅彦船木和喜岡部孝信斎藤浩哉の日の丸飛行隊。

そのシーンに激しく感動して「ジャンプを始めたい!!」と、言いだしたのは、和広氏の方だった。まだ5歳だった内藤は、「兄がやるから一緒に始めるという感覚」だった。

▲写真 小学校2年生の白馬岩岳の大会での飛型(長野県白馬村):本人提供

雪がほとんど降らない東京にはジャンプ台はおろか、ジャンプを練習する術もない。週末毎に、両親は新潟、長野などに兄弟二人を連れて出かけた。東京調布ジャンプスポーツ少年団として、試合も出場した。小学校、中学校と内藤はジャンプに打ち込んだ。そして、更に選手として成長する道を選んだ。

▲写真 幼稚園でジャンプを初めて数日。大会に初出場の開会式。1999年1月 札幌はまなすライオンズクラブ杯(札幌荒井山):本人提供

幼稚園から通い続けていた桐朋を中学卒業と同時に出て、ジャンプの本場、北海道・下川商業高校に入学した。同校出身者には、ソチ冬季五輪団体銅メダリストで、五輪3大会出場の伊東大貴や女子スキージャンプ選手で同じくオリンピアンの伊藤有希などがいる。内藤も、下川時代、インターハイで5位に入賞した。その後は北海道東海大に進学、インカレを目指す日々だった。

「あの頃は、まだ子供で、桐朋の価値が良くわかっていなかったのですよね」
東大など一流国公立大学、早慶にも卒業生を多数輩出する東京の伝統校の一つ。幼稚園小中高一貫校でもある。

かつての学び舎には、応援してくれる多くの仲間が、今でもいる。OBの一人は「自由を重んじ、多様性を尊ぶ校風を体現している。本当に誇らしく思う」と、エールを送る。

コロナが変えた競技生活

大学を卒業するタイミングで、内藤は進路についてはあれこれ考えた。兄は卒業と同時に、会社員としてスタートを切っていた。

「大学院に行ってジャンプ関連の勉強を続けるか、教員になるか、どうしよう」

そんな時、茨城県のスキー連盟から声がかかった。茨城県に来て、国体選手として全国優勝を目指さないか、と。

それならばと、県内で就職して、競技生活を続けた。社会人3年目の時、国内大会で初優勝を果たし、そのままW杯にも出場した。2018年に平昌五輪でテストジャンパー19年には国体で優勝。「17年に5位だった事が、物凄く悔しかった」事が、バネにもなったのだろう。スカウトしてくれた茨城県に恩返しも出来た。現在28歳の、遅咲きのジャンプ選手である。

▲写真 内藤智文選手の飛型(2018年宮様国際スキー大会、札幌大倉山):本人提供

昨年からのコロナ渦。競技生活にも大きな影響を受け続けている。昨シーズンの3月の大会、サマージャンプ大会、今シーズン日本で開催されるはずだった国際大会も全て中止となった。練習環境も厳しく、時間的な制約のためジャンプ練習も従来の半分ほどしか飛べなかった。コロナ前までは1日20本飛んでいたジャンプも、今は10本といった具合だ。

現在は正社員の道を求めながらも、アルバイトの形態で介護関係の仕事に夜間に取り組んでいる。昼間は練習があるため、遅い時間帯の勤務になる。

スキーの縁で、いちはら病院の池田耕太郎院長から声をかけられたもので、同病院の関連施設で取り組んでいる。

「良いリザルト(編集部注:結果)を聞くと勿論とてもうれしいのですが、もっと弾けて欲しいです。表彰台に上がりアピールすること。競技生命は比較的長い種目だが、この1、2年が勝負なので結果にこだわり全力を尽くすことです」と、池田院長。

夢はフライングヒルとオリンピック

衝撃的なスタートとなってしまった今シーズン。出だしは調子が上がって来なかったが、年が明けてから雪印メグミルク杯で2位と、あのレジェンド葛西紀明を上回り、翌週のTVh杯では4位。自らの日本国内でのポジションを、まさに五輪に行けるか行けないか、ギリギリのところにいると、冷静に分析する。

▲写真 雪印メグミルク杯2位入賞時の表彰式(2021年2月大倉山):写真左、青いスキー板、本人提供

「小さい頃からフライングヒルを飛ぶのが、夢でした」と内藤は目を輝かす。

フライングヒルは、ジャンプ競技の中でも最も長い距離を飛ぶもので、2019年時点で世界記録は253.5m、日本記録は小林陵侑の252m。ジャンプ台も世界中でも限られていて、スロベニア、ドイツ、ノルウェーにしかない。

そして、遅咲きジャンパーには、新たな夢が加わっている。中学生の時には既に諦めていたオリンピック。

「とても遠い場所だと思っていた」

平昌のテストジャンプを経て、「五輪が手が届くところまで来たので、北京五輪は、初めてオリンピックを目指すオリンピックです」と、前を向く。が、一方で勤め先の解雇などで、競技生活が脅かされ、「かなり足踏みもしてしまって、近づいたり、遠ざかったりしながら、なかなか気持ちとしては忙しい感じです」
それもまた、厳しい現実である。

※内藤選手は、競技生活を続けるために支援を必要としています。毎日、熱心にツイッターfacebooknoteなどのSNSを発信。すでにツイッターは130日以上連続で。noteには自らだけでなく、ジャンプ競技全体に関して、分析、解説しているものも多くあります。

公式ファンページから、クラウドファウンディングのような支援も行えます。

●ファンクラブ型オンラインサロン「G.Seekers

 特典1.毎日投稿している、内藤智文の目標達成に向けての歩みや、大会の裏話を動画や文章で投稿しています。

 特典2.有料noteを無料で読むことが出来ます。

 特典3.「G.Seekers lab」ではスキージャンプの技術解説や技術向上に向けたディスカッションが行われています。

●内藤智文応援電力「G.Seekersプラン

トップ写真:北海道名寄市吉田杯優勝時の表彰式(本人提供)




この記事を書いた人
神津伸子ジャーナリスト・元産経新聞記者

1983年慶應義塾大学文学部卒業。同年4月シャープ株式会社入社東京広報室勤務。1987年2月産経新聞社入社。多摩支局、社会部、文化部取材記者として活動。警視庁方面担当、遊軍、気象庁記者クラブ、演劇記者会などに所属。1994年にカナダ・トロントに移り住む。フリーランスとして独立。朝日新聞出版「AERA」にて「女子アイスホッケー・スマイルJAPAN」「CAP女子増殖中」「アイスホッケー日本女子ソチ五輪代表床亜矢可選手インタビュー」「SAYONARA国立競技場}」など取材・執筆

神津伸子

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