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.国際  投稿日:2016/8/1

ASEAN分断図る中国、露骨な金権・恩義外交


大塚智彦(Pan Asia News 記者)

「大塚智彦の東南アジア万華鏡」

ラオスの首都ビエンチャンで7月24日から東南アジア諸国連合(ASEAN)の外相会議、ASEAN地域フォーラム(ARF)などの一連の会議がASEAN加盟10カ国に日米中韓などの関係国外相も出席して開かれた。今回の会議では直前の7月12日にオランダ・ハーグの仲裁裁判所が公表した、中国の南シナ海における領有権の主張に関し「法的根拠はない」とする裁定を受けて、ASEANがどう対応するかが最大の焦点だった。 

全会一致の原則が足かせ

南シナ海の南沙諸島(英語名スプラトリー諸島)には中国、フィリピンベトナム、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれ全域または一部島の領有権を主張、実効支配や人工島増設などで激しい争いを続けている。中国、台湾を除く各国はASEAN加盟国。国際的に問題を解決する道筋を開くためにフィリピンは仲裁裁判所に裁定を求めていた。中国政府は裁定を「紙屑」として受け入れ無視を公式発表しており、加盟国の領有権、安全保障にかかわるこの問題をASEANがどう取り扱うかが注目されていたのだ。 

結論から言えば、外相会議、ARFそれぞれの会議後に発表された共同声明、議長声明に「仲裁裁判所の裁定」への言及は盛り込まれなかった。これはつまりASEANが組織共同体として国際社会の判断を中国に受け入れるよう求めることを認めなかったことになる。会議直前から会議中を通じて二国間会議の場や公式・非公式の場を利用してASEAN加盟国に「裁定への言及盛り込み反対」を根回し、説得してきた中国外交の“勝利”であるとともにASEANの“敗北”でもあった。

ASEANは伝統的に「コンセンサス(全会一致)による決定」という原則を貫き通している。つまり、共同声明に関し加盟国の一カ国でも異を唱えれば全体としてまとまらない、という「原則」である。中国側にすれば切り崩すのは一カ国で十分なわけで、今回はカンボジアが終始中国寄りの発言で、フィリピンやベトナムなど南沙問題当事国メンバーの強硬論に異を唱え続けた。これまでもASEAN会議ではこの「全会一致」原則で言及や名指しを盛り込むことが阻まれた共同声明、議長声明が過去にあり、この一見民主的に見える原則が「足かせ」になって多数の意見や考えが反映できないジレンマに陥っている。

中国のASEAN分断作戦

ASEAN加盟10カ国は、南沙問題に関しては強硬派のフィリピン、ベトナム、さらに中国が一方的に設定し領海権の根拠としている「九段線」の南端で自国のナツナ諸島の排他的経済水域(EEZ)が重なるインドネシアが、会議の議題、共同宣言で「裁定を盛り込み、中国を名指しして厳しい態度を示す」ことで動いていた。タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポールなどは中国からの経済援助や自国が抱える人権問題、華僑支配が強い経済構造問題など様々な国内事情から「風見鶏」的中立を堅持。そして親中ながらも議長国として中立を装わなければならないラオス。こうした「中立装い国」はASEANの結束に配慮してフィリピン、ベトナム、インドネシアの主張する対中強硬論に歩調を合わせるそぶりをみせながらも、一方で中国の「アメとムチ」にも理解を示すというダブルスタンダードで臨んでいた。

こうした各国の立場と位置づけを中国は当然のごとく会議前から読み切り、ラオス入りした王毅外相はカンボジア外相との二国間会談に臨み「カンボジアは(南沙問題で)道理と正義を守っている」と高く評価してみせた。中国はタイ、ブルネイ、シンガポール、ラオスとも二国間会談を実施、「南沙問題は当事者間で解決する問題」との中国の主張を刷り込むことに成功。これらの国はどっちつかずの姿勢に終始することになった。

この時点でほとんど“勝敗”は決しており、ASEANの盟主の地位を取り戻すべく加盟国間で最後まで調整役に徹したインドネシアが「裁定どころか中国という名指しすら盛り込めなかった」と嘆息する始末だった。いくらカンボジアが強硬に中国寄りの発言を繰り返しても①全会一致の原則 ②複数の国がカンボジアに強硬にモノを言わず説得に回らなかった――ことから中国の「ASEAN分断作戦」は見事な成果を収めたのだった。

なぜカンボジアは中国寄りなのか

ASEAN加盟10カ国の中で今回の会議ではカンボジアが最後の最後まで強硬に中国寄りの立場を堅持し続けた。カンボジアはなぜ同じ東南アジアの国々の期待を「裏切って」まで中国を擁護し続けるのか。それはカンボジアの歴史と経済状況に答えがある。

カンボジアの正式名称は「カンボジア王国」とう王政の国である。建国の父として国民の多くから慕われていた国王シアヌーク殿下(2012年に死去)という人物を覚えているだろうか。常に笑みを絶やさず誰にでも合掌して腰を低くして接する姿はカンボジア国民の統合の象徴でもあった。国民の多くが虐殺されたポルポト時代、シアヌーク殿下は中国・北京に逃れていた。その後もカンボジアと北京を足しげく往復したのは北京の病院で体調管理、病気治癒をしていたためで、亡くなったのも北京滞在中だった。中国共産党はこのカンボジアの象徴、国王を完全に手中にし、政治的実権のない国王を通してカンボジアへの影響力を増大していった。

カンボジアでは主要国道の延伸プロジェクト、海浜リゾートの開発(38億ドル)、ダム建設計画(2億8000万ドル)などの中国関係の巨大プロジェクトが進められ、多額の資金、資本が流れ込んでおり、カンボジア経済を支えているという現実がある。

今回のASEAN会議の直前、7月15日にアジア欧州会議(ASEM)出席のためモンゴルを訪れたフンセン・カンボジア首相は中国の李克強首相と会談した。この会談でフンセン首相が南シナ海問題で中国の立場への理解と支持を表明、中国は“見返り”として6億ドル(約629億円)の経済支援を約束したという。長年国王を世話した中国の恩義と6億ドルの経済支援の約束こそが、ASEAN会議でのカンボジアの「孤立無援」を支える原動力だった。

中国の開発途上国への「経済支援外交」「札束攻勢」は常とう手段だが、カンボジアにはさらに歴史の恩人として中国に払う敬意という「楔(くさび)」が背景に存在していることを理解しなければならない。

ASEANの在り方見直し論も

ベトナムを訪れた中国人が入国審査で旅券を提示したところ、中国旅券の中の「九段線」が描かれたページにベトナム人入国管理官がいたずら書きをして返却した。中国人ガイドがベトナムの寺院を訪れた中国人団体観光客に対し「14世紀にはベトナムは中国の一部、全てのベトナム文化は中国が教えたもの」と説明し、海岸近くでは海をさして「この南シナ海は中国領です」と話し、中国語の説明のため周囲のベトナム人は理解できずに微笑んでいるだけ。

南シナ海の南端近くに位置するインドネシア領ナツナ諸島には、付近のインドネシアのEEZや領海内で違法操業して拿捕された中国やベトナムの漁船の乗組員が拘置されている施設があるが、インドネシア政府は新たな施設建設計画を発表した。「収容されている中国人とベトナム人の漁民がけんかや騒動を起こし、とても同じ施設に収容しておけない」というのがその理由だという。このような事例は中国とベトナムの関係が政治外交面だけでなく、市民レベルまで悪化していることを示している。

ASEAN会議でのカンボジアの中国寄りの姿勢に、シンガポールのシンクタンク研究者やタイのメディアからは「ASEANの在り方を見直す時期に来ている」との批判や論調が増えてきている。

見直しの要点は①「原則」としての全会一致の見直し ②加盟国の除名――に絞られている。この2点は実は新しくて古いASEANの問題点でこれまでもミャンマーの民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チー女史への人権問題が表面化した2003年に、当時のマレーシアのマハティール首相が「スーチー女史を解放しない場合はミャンマーを(ASEANから)除名する」と警告したこともある。

「全会一致」と並ぶASEANの原則である「内政不干渉」についても「人権や領土領海など国境を超える問題では関係国で協議して解決を目指す」という主張が、特に1967年のASEAN発足当時の加盟国インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポール、マレーシアから度々提唱されてきた。

しかし、国内に深刻な人権問題を抱えたり、社会主義、軍政という異なる政治体制だったりという個別事情をかかえたベトナム(1995年加盟)、ミャンマー、ラオス(1997年加盟)、カンボジア(1999年加盟)という「後から加盟した国々」による反対でいつまでも実現できない、という構造的問題が宿痾(しゅくあ)のようにASEAN という組織には付きまとっている。

来年2017年に発足から50年を迎えるASEANは、半世紀の節目に向けて、「原則」の見直しを含めたASEAN憲章の再検討という「内部改革」の動きをみせている。今回の会議でのカンボジアの姿勢がこの動きを加速させ、大きなうねりに発展する可能性は高い。当然のようにそうした事情は中国も理解しており、今後更にASEAN加盟国に対する中国からの個別の働きかけは激しさを増すことが十分予想される。「アメとムチ」「経済と恩義」「懐柔と恫喝」など中国からの攻勢にどう組織共同体としてASEANは対処していくのか、来年に向けて大きな曲がり角、正念場を迎えようとしている。

トップ画像:ラオス・ビエンチャンにおいて行われた日・ASEAN外相会議(出典 外務省HP


この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト

1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。


 

大塚智彦

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