日本にあった「暗殺への抑止力」 暗殺の世界史入門その4
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・日本は9世紀から300年以上死刑がなかった
・「怨霊」信仰が暗殺の抑止力になっていた
・鎌倉時代の新仏教誕生以降、血なまぐさい時代へ
■9世紀から346年死刑がなかった日本
わが国の歴史にも、暗殺の事例は数多く見受けられる。
7世紀に「天皇中心の国体」の基礎を築いたとされる大化の改新からして、有力な豪族の筆頭格であった蘇我入鹿の暗殺によって始まったことは、中学生でも知っている。
ただ、その後も繰り返された貴族社会の内部、あるいは天皇家を中心とする貴族階級と、新たに台頭してきた武士階級との間での権力争いにおいて、命を奪われた人が意外に少なかったということも、また事実なのだ。
9世紀から12世紀まで、346年の長きにわたって、死刑が事実上廃止されてもいた。もう少し具体的に述べると、810年に嵯峨天皇と平城上皇との対立が武力闘争にまで発展したのだが、結果は嵯峨上皇側の勝利で、平城上皇の愛称であった女官・藤原薬子やその兄が処刑された。しかし、上皇はじめ皇族については、
「遠離無期の刑は死罪に等し=命まで奪わずとも終身刑ならば同じこと」
とされ、流罪で決着を見た。
1156年、今度は崇徳上皇と後白河天皇との間で起きた争いに武士が介入し、世に言う保元の乱が起きるわけだが、この結果、崇徳上皇側についた武士に対して死罪が言い渡されたが、これが346年ぶりだったわけだ。
■信じられていた「怨霊」の存在
なぜこのようなことがあり得たのかと言うと、キーワードは「怨霊」ということになる。この世に恨みを残して死んだ者は、怨霊となって災いをもたらすと信じられていた。特に身分の高い人は、たとえ「A級戦犯」であろうとも、殺害したら後でどのようなタタリがあるか知れたものではない、と考えられたのだった。
この保元の乱、それに引き続く平治の乱(1160年)の結果、平清盛を中心とする平家一門の権力が確立するが、その後、失地回復を狙っていた源氏の一門が、関東を拠点に相次いで決起し、ついには平家を滅亡させる。
かくして源氏の統領・源頼朝が1192年、征夷大将軍に任ぜられて鎌倉幕府を開くわけだが(この年号については、近年では異説も多い)、その頼朝が1199年に急死してしまう。原因は落馬と見られているが、確たることが分かっておらず、当時は暗殺説や「平家の怨霊説」が入り乱れていた。
鎌倉幕府という、天皇家を中心とする貴族社会から相対的に自立した武士の権力基盤を固めようとした矢先という、あまりと言えばあまりなタイミングでの急死だったからである。
頼朝の嫡子・家頼は、この時点で18歳になっており、当時の感覚では立派な成人ではあったものの、父親の政治的才能も、叔父(源義経)の軍事的才能も受け継いでいなかったと見えて、早い段階から、彼が統領では武士階級もまとまらないだろう、と考えられていたという。
実際に彼は、征夷大将軍となって二代目を継ぐが、北条氏をはじめとする有力な御家人(鎌倉幕府を支えた家臣団)によって権力を奪われ、最期は伊豆に幽閉されてしまう。さらには、父と同様に謎の多い最期を遂げるが、こちらは間違いなく暗殺だとされている。
三代将軍は、歌人として名高い源実朝で、頼朝と北条政子との間に産まれた次男であるが、彼もまた政治的才能にはまったく恵まれていなかった。しかも、
「将軍になったら、きっと殺される」
という恐怖心にとりつかれていた形跡があるとされ、もしもこれが本当なら、当時の武士の間で「頼朝暗殺説」が広く信じられていたことの、有力な状況証拠になると言えよう。
しかも、その実朝は1219年、頼家の次男で出家していた公暁により、こともあろうに源氏の守り神である鎌倉八幡宮を参拝中に「父の仇」として刺殺されてしまう。これまた北条氏が裏で糸を引いたのか、真相はまったく分からないが、将軍の命を狙う「テロリスト」が大銀杏の木の陰に隠れていて、それが成功したということは、警備体制がろくなものでなかったとことは事実のようだ。余談だが、この「公暁隠れの銀杏の木」は、2010年に暴風で倒壊した。
■鎌倉時代以降、「暗殺」が当たり前に
ともあれ鎌倉時代以降、権力争いに暗殺という手段が持ち込まれることが、どんどん当たり前になって行く。
日本はすでにこの時代、グローバル・スタンダードに合流していた……というのは冗談だが、大きな理由として考えられるのは、鎌倉時代にいわゆる新仏教が台頭して、人々が怨霊を信じなくなったことであろう。
平安時代までの仏教は、基本的に貴族階級の知的な趣味の域を出ておらず、怨霊といった原始シャーマニズムと、理論的に対決するようなことはしなかった。
しかし、鎌倉時代になって武士や一般民衆の間でも知的活動が盛んになったことを背景に、「人間はどうすれば救われるか」
「死の恐怖はいかにして克服し得るか」
といった命題に取り組む新仏教が、多くの信者を獲得するようになった。
殴られた痛みは殴った方には分からない、とよく言われるが、人間は必ず死ぬもので、怨霊になってこの世にとどまることなどない、という「悟りの境地」に達した人間は、人の命を奪うことに対しても、しばしば無頓着になる。
新仏教が世の中を血生臭くした、などと言うつもりはないが、怨霊が信じられていたことが、暗殺が横行する事態に対し、一定の抑止力になっていたことは事実で、これも日本史の一面であると、私は考えざるを得ない。
宗教心と暗殺やテロリズムの関係については、次回以降、考察することにしよう。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。