金正男暗殺実行犯「アイシャ」を救え!
大塚智彦(Pan Asia News 記者)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
【まとめ】
・アイシャ容疑者逮捕でインドネシア国内世論沸騰
・アイシャは陰謀の被害者だと同情論が急拡大
・インドネシア世論は一気に「反北朝鮮化」
北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の異母兄にあたる金正男氏(45)がマレーシア・クアラルンプールの国際空港で2月13日に暗殺された事件は、インドネシアでは当初金正男氏の正体があまり知られていないことやジャカルタ特別州知事選(2月15日投開票)の報道などに埋没してほとんど関心を呼ばなかった。
ところが殺害実行犯としてマレーシア警察当局に逮捕された女性の1人がインドネシア国籍と判明すると、新聞やテレビ、ネットで一斉に事件とその関連が報道されはじめ、今や国民の一大関心事となっている。
地元紙は金正恩委員長の血縁関係を示す系図、政治的地位と政権の構図を表す図表や写真を掲載して、「北朝鮮という特殊な国」の実情を次々と伝えている。逮捕されたシティ・アイシャ容疑者(25)のジャカルタ市内の自宅、ジャワ島西部の実家に暮らす母親や親族などの声も連日のように伝えられている。
そのインドネシアメディアの報道姿勢は当初の事実関係の報道から、「アイシャは国際的な陰謀の被害者」との位置づけに変化してきており、「アイシャを救え」という論調が強まっている。
■日本のテレビ番組と騙された?
マレーシアの捜査当局やアイシャ容疑者の親族などの証言から今回の「暗殺」にベトナム国籍のもう1人の女性とともに関わったアイシャ容疑者は、「日本のテレビ番組への出演」という依頼を受けていたという。
その番組については ①マレーシアで見知らぬ人に突然背後から目をふさいだり、スプレーを正面から吹き付ける「いたずらビデオ」への出演依頼 ②「香水を見知らぬ人に振りかける香水の宣伝番組」への依頼などとみられている。
インドネシアやマレーシアではいわゆる日本の「ドッキリカメラ」的な番組の人気が高く、アイシャ容疑者も1回100米ドルの出演料で依頼を受け、インドネシアやマレーシアで何度か同様の「ビデオ撮影」に協力していたことが分かっている。
このため事前の収録では「実際に香水をかけていた」が、金正男氏のケースは香水が殺傷の力のある薬物に変わっていて「実行犯の女性2人にはそのことは知らされていなかった可能性」が高いとみられている。
アイシャ容疑者に直接接触して「いたずら」を依頼した人物については「これまでのところ中国人か日本人か判明していない」と捜査当局は明かしている。
■暗殺当日に出国した北朝鮮人男性4人
一方でマレーシア捜査当局は女性2人の暗殺実行犯に犯行を指示した北朝鮮国籍の男性5人を事件容疑者として手配。うちまとめ役とみられる1人を17日にマレーシア市内で逮捕した。しかし残る4人はすでにマレーシアを出国しており、国際刑事警察機構を通じて行方を捜しているとしている。4人は北朝鮮の外交官旅券ではない通常旅券を所持し、暗殺実行当日にすでにマレーシアを出国したものの出国先について捜査当局は明らかにしていない。
この北朝鮮人男性5人(うち1人すでに逮捕)の中にアイシャ容疑者に接近して「日本のテレビ番組出演」を依頼した人物がいる、と捜査当局はみている。このほかに3人が事件に関与した疑いが濃厚としてマレーシア警察は行方を追っているがうち1人は北朝鮮国籍という。
■副大統領も「アイシャは犠牲者」
こうした事件の捜査の進展に伴い、インドネシア国内での報道合戦が激化、内外の報道陣が押しかけたジャカルタ西方約100キロにあるバンテン州セラン県パブアランのアイシャ容疑者の実家では母親や親族が質問に答えてアイシャ容疑者の人となりを話し、無実を訴え続けている。
新聞の論調も「アイシャは国際的陰謀の被害者」「インドネシア人のアイシャは無実、救済しよう」という同情的なものに変わりつつある。
報道の過熱を受けて17日にはユスフ・カラ副大統領が「事件後アイシャは(クアラルンプールの)空港付近で逮捕されたようで、逃走もしなかったことなどから(アイシャ自身が)特定国の工作員や暗殺犯ではないだろう。(アイシャは)殺害の実行犯だったとしても、特定工作員に利用された犠牲者とも言えるのではないか」との同情的な見方を示し、同情論が一気に高まっている。
■インドネシア人の対北朝鮮観に変化
インドネシアはスカルノ初代大統領時代から北朝鮮の金日成主席との間で友好関係を樹立、外交関係もありジャカルタ市内中心部メンテンには北朝鮮大使館が存在する。北朝鮮による日本人拉致事件の被害者、曽我ひとみさんが夫ジェンキンズ氏と再会を果たしたのもインドネシア・ジャカルタであり、今年1月23日のスカルノ大統領の長女、メガワティ・スカルノプトリ元大統領の誕生日にはメンテンのメガワティ私邸を北朝鮮大使が祝賀のために訪問している。
こうした友好関係からこれまで北朝鮮には比較的中立的な立場をとってきたインドネシアだが、近年はミサイル発射を批判したり、北朝鮮とのイベントをキャンセルしたり、北朝鮮レストランが閉店したりと様々な要因から「冷めた関係」に変化してきていたという。
そこに起きた今回の金正男氏暗殺事件へのインドネシア女性の関与は、インドネシア世論を一気に「反北朝鮮化」させており、「恐ろしい国」、「何をするかわからない国」との共通認識が国民の間に広がっている。そういう意味では「北朝鮮にとって友好国であり外交関係のある国」のインドネシアで北朝鮮の実態が周知され始めたことは、今回の暗殺事件思わぬ波及効果と言えるだろう。
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この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。