.社会  投稿日:2018/3/25

被災地復興、未だ道半ば

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Japan In-depth 編集部(佐藤瑞季)

【まとめ】

AARJapan(難民を助ける会の「東北支援 7年目の報告 震災から7年」が開かれた。

東北3県の被災者は74000仮設住宅に住む人は14000人。

・震災時、情報がないことが一番恐ろしい。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttp://japan-indepth.jp/?p=39145でお読み下さい。】

 

先日、東日本大震災から7回目の3月11日を迎えた。被災地から遠くで生活している人は、年々震災のことを思い出す機会が減っている。しかし現地は、未だ復興の最中にある。特に福島原発の周辺住民は様々な事情でまだ自宅に戻れない人も多い。

3月21日午後、AARJapan (難民を助ける会) の「東日本大震災被災地復興支援 7年目の活動報告 」が都内で開かれ、AAR Japan(難民を助ける会)の福島事業担当、高木卓美氏や富岡町3.11を語る会の青木淑子氏が現状報告を行った。

AAR Japan(難民を助ける会)は1979年、インドシナ難民を支援するために、 政治・思想・宗教に偏らない市民団体として設立され、 国連に公認・登録された国際NGOだ。世界60以上の国と地域で支援活動を行う他、東日本大震災の発生直後から支援活動を行い、現在に至るまで、岩手・宮城・福島の3県で、障がいのある方の自立と被災された方々の健康的な生活のために活動を続けている。

冒頭、AAR Japan(難民を助ける会)代表の堀江良彰氏は、支援への感謝を述べた上で、「東京にいると、震災の記憶が薄れていく人もいるかもしれないが、まだ76000人もの人が避難生活を送っている。安心と安全は違う。避難解除が行なわれてもそれが必ずしも安心につながる訳ではない。AARは1人、1人に安心を届けていきたいと思う」と話した。

まず第一部で、AAR Japanの福島事業担当、高木卓美氏が支援事業の報告を行った。

 

東北3県の現状と支援

東北3県の被災者は74000、プレハブの仮設住宅に住む人は14000人もいる。広域避難者支援を行う他、障がいのある方への支援にも力を入れ、29の福島施設への支援を行った。西会津わくわく子ども塾などイベント参加者がその後も連絡を取り合えるような関係性の構築を図る取り組みも行なってきた。

 

郡山市におけるサポートに関して

郡山市の避難者ニーズを把握しようという背景のもと、コミュニティ支援(住民と関係を構築し、状況を把握する)、現地状況の調査と整理 (紙面、インターネットでの調査に加え、現地の支援団体を訪問して活動状況を調べる)、協働・連携しやすい仕組みづくり(9ヶ月の支援期間中、4回会議を行い現地との情報交換をした)を行った。

これにより、避難者を含む地域住民すべてを包含できるような支援体制の構築が求められていることがわかってきた。今回の学びを活かしながら福島の支援を引き続き進めていきたいとまとめた。

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▲写真 左)青木淑子氏、右)高木卓美氏 ©Japan In-depth編集部

続いて第2部に移り、富岡町3.11を語る会の青木淑子氏が「復興を支える 人のつながり〜東日本大震災のその後を語る〜」をテーマに話した。

青木氏は「こんなにたくさんの方が参加して下さり、感動した。富岡町、福島への支援に感謝している。富岡町の話は福島全体の話と同じ、福島の話をすることはこれからの日本を考えること。一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に一歩前に進めることが日本、福島、富岡町にとって必要な支援だ。」

「私は富岡町民ではないが、以前、富岡町で教員をしていたことがあり、富岡町の人が、3月16日に郡山へ避難してきた時に縁を感じた。個人の力の小ささを感じながらも、毎日避難者を訪れ、できることを考えた。その日から今日まで富岡町とともに歩いてきた。昨年の避難解除とともに、住民票をうつした。そういう富岡町民でない視点からお話をできればうれしい。」

また、「富岡町は桜で有名。昨年、6年ぶりに桜祭りが行なわれた。震災のせいで桜をみる人がずっといなかったが、戻りつつある。今年も4月15日、16日に桜祭りが行なわれる。世帯数は6300。高齢世帯率は26パーセントで、福島の中ではかなり低い。これは安定した雇用先があり、卒業後も皆、地元で東電関係の会社に就職していたからだ。原発受け入れに賛成したことを悔いて涙するお年寄りをみると何が本当の豊かさなのか気付くのは難しく、彼らを責められないと思う。」

 

避難の実態

「福島第一原発の事故直後、富岡町では、防災無線で川内町へ避難するように指示があった。避難指示が出て、片道1車線で車が並び続けている写真があった。その写真が私が語り部たる理由だ。皆、戻ってこれなくなるとは思わず、着の身着のままでてきた。この写真が撮られた時から、6年間もずっと富岡町に入れなかった。」

 

避難勧告解除

「昨年、避難勧告が解除された。避難する時は一斉だが、解除された時は一斉ではない。6年も人がいなかった家には簡単に住めない。住民にとって、大切なものは、家族、友人、家畜、ペット、大事に育てた土地、趣味など車に乗らないものばかりだ。どんな思いで彼らが生きなければならなかったのかを想像してほしい。これが原発事故だ。」と述べ、原発事故の悲惨さを訴えた。

 

情報のコントロールの恐しさ

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▲写真 防護服を着る警察官(スライド)©Japan In-depth編集部

「命を守る必要な情報は来なかった。放射能がどれくらいどこに風に乗ってきていたのか、知らされなかった。1ヶ月以上経つまで、発表されず、郡山にもホットスポットあったのに、一切教えてもらえなかった。3月12日に警察官は、防護服着ている、私たちは何も知らないから普通の格好。5歳の子どもに水をもらうために2時間並ばせた水道局の水が最も放射能の値が高かった。それを飲ませて母親はひどく後悔していた。それが情報がないことの恐ろしさ。」と語った。

 

11人に合わせた支援を

人によって状況や必要な支援は異なる。どういう状況なのかを聞いてもらうことが大切だ。

続いて第3部で青木氏への質疑応答が行なわれた。

第一部で報告を行なった高木氏からの「どういう町になっていってほしいか」という問いに対しては、「どんな新しい建物よりも、住んでいる人の気持ちが大切。1万6000人中、住むことを決めたのは450人。その帰った人も、帰れない人も、新しく住み始めた人も、どんな人でも過ごしやすい町になってほしい」と答えた。

参加者の男性の「安心と安全が一致する状態が好ましいのではないか、本当に大丈夫なのか」という問に対しては、「全ては個人の選択、子どもの甲状腺癌も出ている。危険じゃないとは言えない。子どもたちが帰ってこないのは当たり前。」と答え、難しい現状をありのまま伝えている様子が伺えた。

最後に、青木さんは、「人を救うのは人、知らないと何もできない。人として1番大切なのは、自分以外の人のことを知るということ。こうやってお話をすることで、私たちの距離は近づいたはず。次にニュースで富岡町の名前を聞いたら、この話を思い出してもらえるのではないか。ぜひ、富岡町にも来て欲しい」と訴えた。

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▲写真 会場の様子 ©Japan In-depth編集部

会場で報告会に参加した一般の方に感想を聞いてみた。

「青木さんは元々富岡町の出身でないため、外からの視点を持っている。だからこそできることがあるのだと感じた。」(都内20代会社員女性)

「7年目にして、初めて直接被災された方のお話を伺うことができた。これからもこのような機会があれば参加したいと思う。」(都内40代会社員男性)

被災して7年が経つ今、私たちに出来ることは何だろう。必要な支援が人それぞれ違うように、私たちにできることも人それぞれだ。被災地の存在を忘れずに、私たちができる範囲でそれぞれの支援を行なっていくことが大切だと思う。

最後に青木さんが話したように、「知る」ということから始めてみるのがいいかもしれない。富岡町を実際に回りながら語り部の話を聞くツアーもあるという。時間がある人は是非、足を運んでみてはいかがだろうか。

トップ画像:左)第2部の講演を行った青木淑子氏、右)第1部で登壇した高木卓美氏 ©Japan In-depth編集部

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