[古森義久]<平和とは独立や自由が伴わなければ無意味>平和を守る方法について沈黙する日本の「8月の平和論」
古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)
8月の日本では「平和」が熱っぽく語られる。
6日の広島への原爆投下、9日の長崎の被爆、そして15日の終戦と、戦争にかかわる重要な記念日が続くからだろう。あの悲惨な戦争の災禍を思い、その不幸を二度と起こしてはいけないと誓い、平和を祈ることは、日本国民にとってごく自然である。貴重かつ不可欠な自省だともいえよう。
日本でのこの時期の平和論はまず内向きの悔悟に彩られている。戦争の惨状をもたらしうるのは、もっぱら自分たち日本人の心のあり方だとする自責や自戒が目立つ。目を閉じ、体の力を抜き、ひたすら自分の内部にむかって平和を祈る、というふうである。
だが、現実の戦争とか平和を考えるとき、この日本の内省に徹する「8月の平和論」は二つの基本要件に欠けている。その第一は平和の中身とはなんなのか、第二には平和をどう保つのか、という点をまったく論じないことである。
平和とは普通の意味では、「戦争、あるいは軍事衝突がない状態」を指す。
しかし戦争さえなければ、その国が他国の支配下にあってもよいのか。植民地支配でも独裁支配でもよいのか。人権や自由がなくてもよいのか。「奴隷の平和」でもよいのか、ということだ。全世界の大多数の諸国にとっては、この問いへの答えはノーである。
私がもう40年近くも前、ベトナム戦争の最終段階を毎日新聞記者として現地で取材して痛感したことがある。1975年5月はじめ、当時の南ベトナムの首都サイゴンを制圧した北ベトナムの革命勢力軍は大勝利の祝賀大会で「独立と自由ほど貴いものはない」というスローガンを掲げた。
ベトナム独立闘争の父ホー・チ・ミンの金言だった。当時の私は何十年も続いた武装闘争の終わりにやっと訪れた「平和」をなぜ祝わないのか、といぶかった。いまこそ平和という言葉を全面に出すべきだと感じた。だがこの闘争では明らかにベトナム民族の独立と自由は平和よりも貴重だという理念が主体だったのだ。
一方、日本の「8月の平和論」では平和には独立や自由が伴わなければ意味がないというような点はまったく語らない。第二には、「8月の平和論」は平和を守る方法について沈黙のままである。平和のためには、軍事とか防衛とか米軍の基地とかをすべて排除することを示唆しているのだ。
そこには日本という国の独立や自由、そして領土や利益を守ってこそ、望むべき平和が得られるという発想も感じられない。外部からの軍事の威嚇や攻撃に備える抑止という概念もない。
とくにかく「平和!」と叫べば、すべてメデタシという感じなのだ。アメリカ側の皮肉な識者はこの種の日本の平和論を指して「火事が嫌だから消防署をなくしてしまえ、というふうに響く」と評したことがある。
以上のような指摘は日本の多数派からはまだまだ反発を受けるだろう。しかし長年、日本の外で国際情勢をみてきた言論人として、やはり伝えるべき現実だと思うのである。
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