[為末大]<自分が死んだ後に世界はあるのか>自分自身が死んだ時にも「世界はある」と感じられるか?
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
いつも考える疑問の一つに、「自分が死んだ後に世界はあるのか」という事がある。
「そんなものあるに決まっている、現に誰かが死んでも世界はあるじゃないか」と。確かにそうなのだけれど、自分自身が死んだ時にもそう感じるのだろうか。
僕は死んだら全て無くなると思っているので、「知覚する自分は死後いない」と考えている。だとすると太陽を見る事も、テーブルを触る事も、料理のにおいを嗅ぐ事もできない。何ら知覚できないものは、自分にとって「ある」と言えるのだろうか。
一方で、日常、例えば手で何かを触っているときも、手はあくまでセンサーで、「知覚している」と認識するのは脳と言えるのかもしれないけれど、その脳の中の主体は「誰」なのか、というとそれもよくわからない。つまり外を知覚しているのが私の「中心」と考えても、私の中心が「どこ」なのかがよくわからない。
笑いを支える大きな要素の一つに、つられ笑いがある。
周りが笑っているとつい笑ってしまう。また人間は口角が上がると楽しさが増すという実験もある。楽しいから笑うというだけではなく、笑うと楽しくなる。二つを合わせると、「私」が、楽しい気分になった「私」発ではなくなる。
「『自分の範囲』が自分の身体の範囲でおさまっている」と考えない方が、実はしっくりくるように思える。反対に言うと、それは全体のどこら辺かの部分を「自分」と呼んで区切ろうとしているだけではないか。いずれにしても、切り離された自分が存在する事のむずかしさ。
感じている事も、自分自身も、全部幻という感覚がどうにも抜けない。
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