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.社会  投稿日:2016/2/5

福島県相馬市で孤独死が少ないわけ~機能した地域社会の絆~


上昌広(医師・研究者)

「上昌広と福島県浜通り便り」

東日本大震災から5年が経とうとしている。私は福島県相馬地方での医療支援を続けている。

相馬地方とは相馬市、南相馬市、飯舘村、大熊町、浪江町、双葉町、葛尾村を含む地域のことだ。福島第一原発事故で重度に汚染された地域とほぼ重なる。この地域は、いまも原発事故の後遺症に喘いでいる。

毎年、この時期になると読み返す本がある。それは、故額田勲氏が書いた『孤独死 被災地神戸で考える人間の復興』(岩波書店)という本だ。

額田氏は昭和15年神戸生まれの内科医だ。鹿児島大学を卒業後、九州で働いた。その後、昭和55年に神戸に戻っている。阪神大震災後は、西神地区に仮設住宅に診療所を開設し、被災者の診療に従事した。その記録が『孤独死 被災地神戸で考える人間の復興』である。この本を読めば、額賀氏の仕事のやり方がわかる。地域密着だ。特に歴史を重視する。

例えば、「長田は歴史的に長く差別に耐えてきた街である。古くは居住者数が数万という日本最大の被差別部落が存在したし、いまも神戸市の定住外国人(主として在日朝鮮、韓国人)の3分の1がこの街に住む」という記述がある。本質をついている。

神戸といえば、モダンなイメージを抱く人が多いが実態は違う。幕末まで、神戸は寒村だった。歴史の表舞台に姿を表すのは、1864年(元治元年)に江戸幕府が海軍操練所を開いたときだ。1868年(慶応3年)には、この付近が兵庫港として開港され、周辺に居留地ができる。その後、神戸は西洋文化を受け入れ、発展していく。

神戸は基本的に「流れ者」の町だ。その象徴が長田であり、西神地区だ。本文中に登場する長田で被災した谷口淳(仮名)さん夫妻は典型的な住民だ。文中では「谷口さん夫妻は結婚して以来、昭和30年代に建築された賃貸文化住宅の一階に住んでいた」と紹介されている。

高度成長期に労働力を期待され、地方から出てきたのだろう。二人の子どもの成長と共に、6畳と4畳半の部屋は手狭になり、妻は何度も転居を主張したらしい。しかしながら、夫はそれを受け入れず、震災を迎えた。節約した家賃は子どもの学費に充てられ、子どもたちは私立大学を卒業することができたという。

阪神大震災は文化住宅を容赦なく破壊した。そして、谷口さんは妻を亡くした。「甲斐性がないばっかりに」と嘆くが、後の祭りだ。誰も知り合いのいない仮設住宅へと収容されていく。このような被災者こそ孤独死の危険群だ。額田氏は重点的にサポートした。

この状況は、福島県浜通りとは全く違う。相馬市の仮設住宅で孤独死されたのは、これまでに一人だけだ。南相馬市の精神科医堀有伸氏は「アルコール中毒や孤独死は目立ってはいません」と言う。勿論、程度問題だが、阪神大震災とは比較にならないのは間違いないだろう。

なぜ、相双地区では孤独死が少ないのだろう。堀氏は「比較的出身地の近い方がまとまって住んでいるなど、神戸の反省が随分いかされている面もあるが、それ以上に地域社会が機能していることが大きい」という。

私は、この差は神戸と相馬の歴史に起因すると思う。相馬の歴史は長い。鎌倉時代から明治まで相馬家が領有した。武勇に秀でた一族だったという。わずか6万石の大名が、伊達、豊臣、徳川に滅ぼされなかったのは驚くべきことだ。

生き残りのための努力は涙ぐましい。戦国時代、伊達政宗に対抗すべく、常陸の大大名である佐竹氏に与した。豊臣秀吉の小田原征伐では石田三成に取り入った。関ヶ原の戦いの後は、徳川家康の謀臣本多正信に近づく。危機に際して、外部勢力を使うのが上手い。

住民も必死だった。江戸時代初期には二度の大津波が襲った。慶長・元和の大津波だ。沿岸部は大きな被害を受け、多数の死者を出した。ただ、彼らは負けなかった。故郷を捨てることなく、復興させた。

相馬地方は多くの試練を生き延び、一つのコミュニティーとして成熟していった。婚姻・仕事・学校などを通じて、時間をかけて地域の連携を深めてきた。

このような人間関係は、時に煩わしい。しかしながら、一旦、災害が起こると威力を発揮する。額田氏は「人間関係こそがこの世の最良のライフライン」と言う。悲しいかな、このような人間関係は一朝一夕では形成されない。地域コミュニティーの完成度において、神戸と相馬では大きな差がある。それが、孤独死の差へと繋がった。

放射線問題や医師不足など、相馬地方は多くの問題を抱えている。ただ、この地域には強い地域社会が残っている。さらに、外部ネットワークを用いる伝統がある。私も、その中の一人だ。

歴史は繰り返す。この地方の人々を見ていると、今回の災害も一体となって克服するだろうと思う。このような歴史的大事件に関わることになったご縁に驚いている。微力ながらも引き続き努力したい。


この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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