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スポーツ  投稿日:2016/3/28

自分を“分ける”ことと幸福感


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

隔たりのない誇りはあり得るのだろうか。例えば、人として生まれたことに誇りを持ってと言われればそうなのかもしれないが、いまいちピンとこない。生き物の中から人を切り取っても何か特別な感じがしない。ところが、日本人としての誇りや、広島県民としての誇りと言われると腑に落ちるところがある。似ているものの中から少しの違いを見出した方がより違いを感じやすい。

分けるということによって私自身も成り立っている。自然というものは二つ呼び方があって、それらはしぜんとじねんと言う。しぜんとは“私がしぜんを眺めている”という関係になる。じねんは“じねんの中に私がいる”という関係になる。しぜんには私は含まれず、じねんには私が含まれる。

言葉にするということは、分けるということだ。コップと言った途端、コップは目の前の風景から切り取られて、個別のコップとして認識される。彼らと言った途端、文脈から読み取られ、彼らではないものと彼らが切り取られる。言葉は何かを全体から切り取り、定義することによって成り立っていく。

トランプ旋風は、空気の中にあった分断をはっきりと見せてしまったのではないかと思う。トランプの言葉によって人が惹きつけられているというよりも、そうそうそこを境目に俺たちはこっち側なんだと意識が表面化したように思える。

多様性というときに、私が感じる難しさは、人を分けて定義しなければ多様であると認識しがたいことだ。障害者やLGBTという言葉がなく、すべての特徴が背が高い低い程度になったときに、わざわざ多様性という言葉は使っていないだろうと思う。けれども、そのときには背景は違っても考え方が似通った人間が集まりやすくなり、結果として思想の多様性は担保されにくくなると思う。考えが根本的に違う人といると、幸福感は減少しやすいと私は思っている。

じねんから私を切り離すことで、私は生まれるが、自分の体の中の細胞膜一つ一つは私と意識をしていない。一方宇宙からみれば地球全体でバランスしているようなものだろうけれど、その中の細胞膜の一つ一つが意識を持って私とは何者かを考える。

為末大 HPより) 


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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