『忠臣蔵』はテロリズムである ネオ階級社会と時代劇その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
私はノンフィクションや評論・エッセイだけでなく、小説も書く。
一番長いものは、軍事ジャーナリストの清谷信一氏と共著でものした『真・大東亜戦争』で、ノベルズ版全17巻(電子版は全18巻)。発行は2001年から2004年にかけてだが、ワニノベルズの最長不倒記録となっている。
お読みいただければ分かることなのだが、著者の側には、戦争を賛美はもとより、肯定する意志は毛頭無い。
にも関わらず、戦争をエンターテインメントにしてよいのか、といった批判ないし疑問の声は、結構あちこちから頂戴した。憤慨した清谷氏が、
「じゃあ、NHKの大河ドラマもいけないんですかね」
と語っていたのが今でも印象深い。
たしかに、時代劇と言うからには、チャンバラや合戦シーンがあった方が理屈抜きに面白いと考える視聴者は決して少なくない。
『水戸黄門』にしたところで、あんなもの現在の価値観を当てはめれば、ボディガードを引き連れて全国を漫遊している了見の知れない爺さんが、突如として「葵の御紋」などという、軍事独裁政権の権威を持ち出して、たかだか田舎の小悪党を土下座させる話ではないか。戦争小説を愛読するのがいけないと言うのなら、あのドラマのファンは一人残らず軍国主義者なのか。
逆に『忠臣蔵』など、これまた現在の感覚で言うならば、どう考えてもテロであろう。これもこれで異論噴出となりそうだが、ちょっと考えてみていただきたい。
理由がどうであれ、厳粛であるべき殿中で抜刀し、目上の高齢者に斬りかかったのは浅野内匠頭の方である。当時の法律に則って切腹に処せられたのは、なんら不当ではない。
これを逆恨みして、かつて幕府の要職にあった人物の自宅を大人数で襲撃し、殺害に及んだというのが事件の本質であろう。これをテロと呼ばずしてなんと呼ぼうか。
『水戸黄門』と『忠臣蔵』には実はもうひとつ共通点があって、どちらも史実に立脚してなどいない、ということである。
「黄門様」のモデルとなった水戸光圀公は、そもそも水戸を離れて生活したことがないし、『忠臣蔵』は大部分がフィクションだということは、日本史を少し勉強した者にとっては常識だと言ってよい。
問題は、なぜこのような「歴史の歪曲」を行ってまで、架空のヒーローを生み出さねばならないか、ということである。
ひとつ考えられるのは、人間もやはり動物であり、闘争本能や征服欲を備えている、ということだ。
そうであれば、多くの人が強い者や勇敢に戦う者に魅力を感じることには、なんの不思議もない。
ただ、弱肉強食に徹している野生動物の世界と違って、人間社会には、本能のままに行動することを抑制する様々なシステムが存在する。具体的には法の支配と呼ばれるものだ。
法を守る者は法によっても守られる、という法治国家の精神は、近代社会の基礎と呼べるものだが、現実はと言えば、多くの人々は日々、理不尽を感じて生きている。
権力やカネを握った者は好き勝手ができるのに、自分たちはいくら働いても、恵まれた立場に立つことができない、というように。
だからこそ、権力者が実は弱者の味方であったり、たとえ法の支配に背こうとも、忠義なら忠義という価値観に殉じて行動を起こす者が出たりすると、拍手喝采となるのである。
私が、軍記物にはじまって『水戸黄門漫遊記』や『忠臣蔵』の類が、封建体制下での庶民の鬱屈に対する「ガス抜き」の効果があった、と考えるのは、こういった意味だ。
しかしながら、それが全てではない、とも考えている。
『忠臣蔵』における、亡き主君の無念を晴らす云々はひとまず置くとして、権力者が弱者の味方をするという『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』の世界観は、今でも「正義」として受け容れられる。
だからこそ,これらのドラマが人気を博したわけだが、私はここに、ある危険な側面を見ているのだ。次回は、その話を。
*トップ写真:大石内蔵助良雄像
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。