ドラマをカタルシスで終わらせる危険性 ネオ階級社会と時代劇その6
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
英国の階級社会をつぶさに見て、最初のうち私は、下の方のクラースに位置づけられた人たちは不満を持たないのだろうか、との疑問を抱いていた。
しかし、ロンドンでの生活が長くなるにつれ、階級社会というものはアパルトヘイト(人種隔離政策)のごときものとは趣が違うのだ、ということが理解できるようになった。いや、正直に言うと今もって理解はできない。ただ、労働者階級の英国人というものは、そのような環境に耐えているわけではなく、世の中とはそういうものだ、と割り切っているのだな、と思えるようになったのである。Them and us. 彼らと我々。要するに、彼ら(上流および中産階級)は彼らで、我々は我々だ。という「棲み分け」の論理が、この一言に集約されている。
同じ頃、私は「ロンドンの士農工商」などという言葉も耳にした。
こちらは日本人社会特有の言い方で、つまり、在英日本人社会にあっては、外交官や、古くから当地に進出している、財閥系大企業の駐在員のステータスが高い。一方、旅行会社や航空会社などは、人数は多いもののステータスではやや劣る。研究者や留学生は、またちょっと特殊な存在で、企業駐在員を相手の商売そしている人たち、具体的には出入り業者や日本レストランの経営者などは、まあ頭を下げてなんぼの存在、といった意味だ。
つくづく下らない、とその時は単純に思ったが、これを英国の階級社会と二重写しにして見ると、笑い事で済まされないことに気づいた。
そもそも英国で言うクラースとは、もっぱら職業によって規定されている。
王侯貴族が頂点で、これに地方の大地主階級などを加えたのが上流階級。大企業のエグゼクティブや医師・弁護士などの専門職、成功した芸術家などがアッパー・ミドルクラス。官僚や日本で言うエリート・サラリーマンがミドルクラス。零細自営業者、下級公務員、自営農民などがロウアー・ミドルクラス。そして、主として肉体労働に従事している人たちがワーキングクラス(労働者階級)。
階級社会とか、階級一般について述べるときはクラースと伸ばして発音し、個別の階級を指す時には、なんとかクラスと言うようなので、ここでの表記もそれに倣った。
ここで話を日本社会に戻すと、いや、読者諸賢には、私が何を言いたいか、すでにお分かりではないだろうか。親がエリートなら子供もエリート、そして親が労働者ならその子供も労働者。そういった「格差の世襲」が当然のこととして受け取られ、階級によって異なるライフスタイルを維持し、一緒に酒を飲む程度の交流さえもない。これは、近未来の日本の姿ではないか、と考えた。封建時代の身分制度が取り払われて、およそ100年。新憲法によって華族制度が廃されて半世紀あまり(20世紀末の時点)。日本には、新たな階級社会が復権してきているのではあるまいか、と。
もう一言付け加えるなら、よくも悪くも長い伝統を持つ英国の階級社会と違い、学歴エリート達が自分たちの特権的立場を独占するために築きつつある「ネオ階級社会」であるが故に、上層に入れなかった人たちの鬱積は、かなり強い。
閉塞感、という言葉をここ数年、よく耳にするようになったと感じる人は多いはずだ。努力してもどうにもならない、という感覚がそれである。この点、戦国時代というのは、生まれながらの身分は低くとも、腕っ節や才覚で一国一城の主になることも可能だった。また、幕末というのは、封建社会の閉塞感に耐えきれなくなった若者たちが、命懸けで社会改革に乗り出した時代として描かれている。
ドラマはもともと虚構の世界なのであるから、そこに現実逃避のような要素があったとしても、それ自体は責められるべきことではない、と私は思う。ただ、逃避からはなにも生まれないのであって、やはり現実に抗する力を、歴史上の人物をデフォルメした、ドラマの登場人物に託すのではなく、自分自身と次世代の日本人の問題として、きちんと考えていただきたいのである。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。