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.社会  投稿日:2014/1/28

コピー・ペーストと「守破離」〜学習とは「型」を覚えた後、それを破って離れるプロセス。「型」はいつかは破らないといけない。


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

執筆記事プロフィールWebste

◆コピーペースト思考の特徴◆

「自分の頭で考える」とよく言うけれど、一体それはどういう事なのか。例えばある物事に対し、答えを知っている人でも、自分で考えてそこにいる人と、もらいものの思考でそこにいる人がいる。その違いを考えてみたい。

例えば「子供の足が速くなるにはどうしたらいいか?」と二人に聞く。Aさんは、経験則から「大きく動かしなさい」と言う。Bさんは、「教科書にそう書いてあったから大きく動かしなさい」と言う。二人とも教科書は見ている。Aさんは経験と照らし合わせて教科書に同意している。Bさんは教科書をコピーしている。

子供が尋ねる。「どうしてですか?」

Aさんは「経験からそう思う」と答える。ところがBさんも「経験からそう思う」と答える。Bさんは教科書のコピーだという事を忘れている。というよりも自分の考えだと本気で信じている。二人とも答えは同じ。でも全く違う。

ある学説が出る。大きく動かすより小さく早く動かした方がいい。Aさんは「本当だろうか?」と疑い、自分の経験と知識でそれを検証する。Bさんは「その学説はどの程度の権威が保証しているか?」を見ている。その学説が教科書に載る。Bさんは新しくそれを頭にコピーペーストする。

Aさんは悩む。大きく動くべきか、小さく動くべきか。答えはいつも暫定的で、そして、過去の自分はいつも至らないと思っている。Bさんは悩まない。「間違えたのは教科書のせいで、自分の頭のせいじゃない。」つまり自分の責任ではない。二人に尋ねると、二人ともこう答える「自分で考えた結論です」

「自分で考えろ」という言葉が効きにくいのは、その人にとっては、「考える」とは「コピーペースト」の事で、それ以外の答えの出し方は知らないから。知らないもの、見えないものをいくら説明しても、伝わらないのだと思う。

◆コピーペーストと守破離◆

もちろん、人間は言語や振る舞い、表情も含めコピーから始まっている。その先まで深くいくなら「自由意志」はあるのか、というような所に行き着くのだろうけど、そこまでいかない所の話。

「型文化」というのが日本にはあって、それはまず「考えるより先に型を覚えてしまおう」という事。初心者は何が大事かもわからないから、いちいち疑問に思わずにひたすらに言われた事、教わった事を繰り返す。そうして反復がある臨界点を越えるとできるようになる。

体罰も、コピペ思考も、根性論も、私にはこの「型文化」の副作用に思える。考えるな、身体で覚えろ、さすればいつかはわかる日が来る。反復の奨励、思考の否定。「型」は誰にでも効くから、みんなを平均値に引き上げる効果があるように思う。

「守破離」という言葉がある。学習には「型」を覚えた後、それを破って離れるというプロセスがあるという意味。コピー自体は学習プロセスでは必要な事だろうけれど、ある時点から今度はそれを破り始め、オリジナルを作り始める。「型」はいつかは破らないといけない。

自分の頭で考えるとは、照らし合わせるものがある、という事。その照らし合わせる鏡を作る為に守破離の「守」があるのだろうけど、それを破れないとコピペ思考に陥る。日本の教育は基本は「型」を教えるものだけど、破るシステムがあまりなく、だから自力でそれに気づかないといけない。

「型」は記憶。記憶して記憶して考え無くてもできるまでに記憶する。オートマティックな状態を作る。問いかけると、同じ「型」を持った人は、みんな同じ答えが出てくる。答えを出したのは頭ではなくて、「型」というシステム。

「型」から離れて初めて、照らし合わせる事が出来る。「型」そのものになっている人は自分がしている事が「型」だとも知らない。「型」から出た答えを自分の考えだと信じている。

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