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.国際  投稿日:2016/11/22

「私にとって台湾は一番目がない二番目の故郷みたいなものです」 失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ2 竹中信子さん


野嶋剛(ジャーナリスト)

「野嶋剛のアジアウォッチ」

プロフィール:竹中信子さん/1930年11月26日生まれの85歳。台北に生まれ、幼少期に蘇澳に移住。祖父の竹中信景氏は蘇澳冷泉の開発に貢献した。蘇澳小学校、蘭陽高等女学校に通学。3年生で終戦を迎え、1946年に基隆港から鹿児島港に引き揚げた。いまでも毎年蘇澳で開催される蘇澳冷泉祭に招待されており、当時の同級生の台湾人との交流も続けている。現在は東京都内で暮らし、著書に「植民地台湾の日本女性生活史」がある。

野嶋:台湾の宜蘭の蘇澳という土地で育ったそうですね。

竹中:生まれは台北ですが、育ったのは蘇澳(そおう/慣用読み:すおう)なんです。蘇澳にいた両親の結婚が祖父から認められず、台北に駆け落ちで来ていましたが、私が生まれてすぐに祖父が折れて迎えにきて蘇澳に戻りました。私の蘇澳での時間は1歳から15歳までです。祖父は神社の神主出身でもあり、蘇澳神社で仕事をしていました。蘇澳は炭酸の入った冷泉が出るのですが、毎朝、炭酸泉でみそぎをやっていました(笑)。子供もやらされて、寒いのなんのって、ひいひい泣いて。祖父は頑固一徹の厳格な人で有名でした。

台湾出兵で、祖父は北白川と一緒に、蘇澳の近くの澳底(おうてい)という土地に上陸しました。当時、祖父は満洲にいたのですが、台湾に連れていってくれと近衛師団に頼み込んで相手も熱意に負けたそうです。台湾に行くと、中国語も話せるし、満洲でも兵站の仕事をしていた経験があり、軍からは重宝されたらしく、台湾にそのまま居着くことになったようです。

野嶋:竹中さんはおじいさまのことを調べるために台湾日日新聞という当時の台湾の新聞を集めたようですね。

竹中:はい。調べていくと、祖父のことが時々出てくる。「竹中通訳官が現地の言葉ができる人を探している」とか。祖父は、その後、台湾で冷泉の開発に取り組みます。当時、台湾の人々の間で冷泉は「毒水」だから飲んではいけないと言われて、誰も近づかなかった。炭酸水なので、小動物や昆虫が死ぬからでしょう。祖父たちが炭酸水だと考えて確かめてみたら間違いないとなって、炭酸泉の発見者となりました。明治6年に、樺山初代台湾総督にこの炭酸泉からつくったサイダーを祖父が渡したら喜んだそうです。

その後、祖父は軍籍を離れましたが、軍隊への補給のため、炭酸泉をいくつも掘り当てて、プールや浴場を経営しました。炭酸泉は皮膚にいいので、兵隊さんは靴をはいているから足におできができるので、炭酸泉に脚をつけさせて直しました。飲用もできて胃腸病や高血圧にも効きます。

祖父は没落氏族で好奇心が強い人でした。商売でいろいろ失敗してあちこち歩いているうちに、台湾で成功しました。炭酸泉からつくるサイダーはハイカラの飲み物でした。かつて、レモネードをペリー総督が日本人に振る舞ったこともありましたね。兵隊さんたちはサイダーを飲んですごく喜んで、彼らはあちこち行き来するので、私たちの「広告塔」になってくれました。このほか、祖父は蘇澳で旅館「蘇澳館」と雑貨屋を経営し、蘇澳に定住した最初の日本人になりました。工場をつくって、ラムネも売りました。

でも祖父は質実剛健な人でもあり、生活は武士の生活そのままで無駄遣いさせてくれなかった。小さいころから学問が大切だと言い聞かせられ、男も女も区別しなかった。工場の名前は「竹中天然炭酸水工場」です。資本金500円。販売先は台北がいちばん多く、地元もあった。

沖縄出身の祖母もやり手で、英語もフランス語もネイティブ並みに話せて、語学に才能があって瞬く間に台湾語も覚えたそうです。終戦のとき、工場で働いている人に経営を譲りました。引揚後はさらに繁盛したらしいです。

野嶋:日本への引き揚げのとき、竹中さんは何を感じていましたか。

竹中:私は帰りたくなかった。動物が大好きで、犬や猫がかわいがっていましたから。別れが堪え難く、この子たちを置いて帰れないと思った。特に帰る先もなくて、ほかの日本人が残れるなら残ってもよかったのですが、引き揚げ命令がきたので、やむなく帰国しましたが、家族中で泣きはらしました。

野嶋:その後、台湾にはどのぐらい通っているのでしょうか。

竹中:たぶん40回を超えていますね。もう途中から数えなくなった。最初は勉強のために行ったのです。戦後の日本では台湾を植民地にして搾取したと教えていたので、本当にそうだったのか、台湾の歴史を調べようと思いました。母のことを記録に残したいとも思い、日本統治時代に台湾にいた女性のことを調べて、女性史を書くことにしました。自分は音楽教室をやっていて自立していたので、毎年8月に3週間、お休みにして、台北で文献を調べていました。当時の日本語文献です。その作業を始めたのは55歳です。

野嶋:日本の台湾統治について、どう思っていますか。

竹中:植民地であろうとなかろうと、世界史の大きな流れを人間がひっくり返せるほど力はなく、歴史という大河の大きな流れで生きる以外にありません。そのなかで台湾は日本の植民地になるべくしてなりました。当時の人たちは帝国主義的な考え方から植民地を持とうと考えました。現在からみれば間違った考え方です。自分たちが利益を得るために利用し、弾圧もあり、搾取もあり、悪い事をする人もいます。

ただ、日本の場合、世界的には後発で植民地を持ったので、先発の西洋諸国に負けまいと頑張った。台湾の統治には日本人の当時の理想というものをかなり織り込んでいます。そこにはいいこともあったし、悪いこともあった。両方でした。それは人間の営みとして仕方ないと思います。日本人は仕事として与えられたら損得感情もなく忠実にいいもの造ろうとする職人気質があります。台湾の人はそれを理解していました。大きな仕事、大きな事業は、政治による大きな力が支えないとできない。台湾に建てられた大工場やダムや製糖工場は、日本がないとできなかった。

湾生・竹中さん家族

野嶋:竹中さんにとって故郷とは何でしょうか。 

竹中:これはとても難しい問題です。台湾にいたとき、台湾の人から「台湾は第二の故郷ですか」と聞かれたんです。ふっとそのとき思考が止まってしまった。「第一の故郷」があるはずだけど、どこだろうって。台湾は15年しか暮らしてない。日本にはその3倍以上もいたのに、です。

野嶋:戦後の暮らしは、やはり大変でしたか。

竹中:引き揚げは鹿児島から門司港に行きました。父は私が4歳のときに流行性脳脊髄膜炎で亡くなっていて、門司で暮らした4年間は大変で、母も私たちも苦しかった。物思いにふける暇もなかった。家族の一体感はありましたが、生活には追われましたね。見知らぬ門司の商店街の真ん中の狭い路地の奥におんぼろの家を借りて暮らしました。そこは誰かが自殺したので住む人がいなくなったところだと近所の子供たちが言っていました。母は食堂で一日中働いていた。でもね、あたしたちに学校に行きなさいと言い続けました。財産は何かあったら台湾みたいに置いていくしかないが、教育だけは身に付いて離れないからって。お母さんは一生懸命がんばるから、あなたたち、勉強だけはしてくださいといつも言われていました。

当時の私は、そんなものかなあと思っていただけで、近所の奥さんには「あんたみたいな親不孝は見たことがない」と怒られたりしました。経済的理由で私は大学に進学できなくて、母は私に抱きついて大泣きしました。すまない、すまない、あなたに勉強させてあげられなくてすまない、すまないって。その母は91歳まで生きてくれました。そんな母の事を書きたいと思ったのが女性史に取り組んだ始まりです。

野嶋:竹中さんにとって故郷とはどこのことなのでしょうか。

竹中:ほんとうに難しい問題です。東京に出て、結婚して子育てして、東京の大泉や石神井に住んだ。家族も日本にいる。けれど、日本を故郷とは思えない。でも、台湾で日本語は使えないし、親兄弟もいない。でも、台湾の自然や空気は故郷そのものの感覚がある。自分が根無し草のような気がして、自分のアイデンティティは分裂している、私は放浪者だと結論を出しました。

私にとって、台湾は「一番目がない二番目の故郷」みたいなものです。でも、いつも迷っている。蘇澳を訪ねて死んでもいい。でも地元の人たちにも迷惑をかけちゃうし。民族としては日本人です。国籍もある。でも普通の日本人が日本にいて日本が故郷だと思うのとはかなり違う。引き揚げてから、戦後日本で、台風情報は、台湾と日本と国交がなくなってもテレビで台湾のことを伝えます。いつも、台湾に行ったらどうしようか、蘇澳に行きませんようにと心配している。一日に何度も天気図を見たりして。知り合いの顔も浮かびます。

私という人間は台湾と日本に分裂しているとも言えるし、台湾と日本の両方で一人の人間にもなっている。両方あわせたら一つのアイデンティティになれる。ふるさとって言えるものは、私にとって台湾しかない。でも自分は日本人です。複雑ですよね。台湾が気になって気になって仕方ない。蘇澳のみんなが幸せでいてほしい。蘇澳の街全体が幸せでいてほしい。

野嶋:台湾に通うようになって、台湾への思いは変化しましたか。

竹中:自分のなかでは台湾と日本の区別がなくなってきています、台湾から日本に帰ってくると、トランクをガラガラひっぱって、なんだか隣の街から歩いて帰ってきたような感覚になっています。最初のころは「さあ台湾に行ってくる」と意気込んでいたのですが、いまは何も距離感がありません。

蘇澳ではいつも冷泉の近くのホテルに泊まります。シーツを自分で持っていかないといけないと思うほどのホテルなのですが、窓から自分の家や冷泉が見えるんです。自分が昔いたところが見える。それだけでいいんですね。

(シリーズ3に続く。全3話。シリーズ1も合わせてお読み下さい。毎日18:00掲載予定)

台湾ドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」監督:ホァン・ミンチェン が11月12日より東京・岩波ホールで日本公開。

トップ画像:竹中信子さん ©野嶋剛

文中画像:竹中信子さんのご家族 ©野嶋剛


この記事を書いた人
野嶋剛ジャーナリスト

1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学の後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。在職中に法政大学大学院でODAに関する日中関係論で修士号取得。その後、政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。中国、台湾、香港、東アジアなどを主なフィールドとして執筆活動を行っており、日本、中国、台湾のメディアでコラムを多数持っている。これまでの著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版され、現地で高い評価を受けている。

【著書一覧】

『イラク戦争従記』(朝日新聞社、2003年)

『ふたつの故宮博物院』(新潮選書、2011年)=『兩個故宮的離合』のタイトルで、中国、台湾で翻訳出版。中国で年度最優秀図書賞(社会科学部門)を受賞。

『謎の名画・清明上河図』(勉誠出版、2012年)=『謎一樣的清明上河圖』のタイトルで、中国、台湾で翻訳出版

『銀輪の巨人ジャイアント』(東洋経済新報社、2012年)=『銀輪巨人』のタイトルで、台湾で翻訳出版

『チャイニーズ・ライフ』(訳書・上下巻、明石書店、2013年)=日本政府文化庁メディア芸術祭優秀賞

『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)=『最後的帝國軍人 蔣介石和白團』のタイトルで、台湾で翻訳出版

『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店、2015年)=『銀幕上的新台灣』のタイトルで、台湾で翻訳出版

『故宮物語』(勉誠出版、2016年4月)=『故宮90話』のタイトルで、台湾で翻訳出版

『台湾とは何か』(ちくま新書、2016年5月刊行予定)

野嶋剛公式サイト】http://nojimatsuyoshi.com/

野嶋剛

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