『日本解凍法案大綱―同族会社の少数株、買います!』3章 銀座のウェストという店 その3
牛島信(弁護士)
「母親が急に金回りが良くなったっていうのは、身近にいてよくわかった。それまで、子ども心にも、母親が金に苦労しているってことはよくわかっていた。たびたび金貸しらしき男たちが訪ねてきて、おびえたものだ。母親にお母さんはいませんて言えと教えられて、そのとおりを泣きながら男たちに話した。
母親は俺たち二人の生活の金をどうやって作っていたのか。
田舎に両親はいたんだが、とても頼ってはいけない風だった。もう言ったか?
そんなときが何度もあった。そのたびに母親は、最後は墨田のおばちゃんのところに出かけていたんだ。小学校からの同級生だといっていた。金を借りに行っていたんだ。何度なんどもあった。それでも母親は借りた金はきちんと返していたようだった。そういう性格の女性だったからな。
36のときにその男に出逢ってから、母親の生活は変わった。住むところに始まって、着るもの食べるもの、急に格上げって感じだったな。狭い子ども部屋が大きくなって、立派なベッドと机、それに本棚がはいった。真新しい小さな花柄のカーテンがきれいだったな。ソファなんてものを家のなかで見たのは初めてだった。
「敬夫、オマエ必ず大学に行くんだよ。今の時代、大学くらい出ていないと世間に出たときに困るから。お母さんがきっと出してやるからね。そのための苦労ならお母さんはどんな苦労だってします。この身は惜しくありません」
母親はそこまで言ってくれたよ。
今さらだけど、ふっと思うことがある。母親って女は、女性としての性の悦びってやつを知っていたのか、って。息子が母親について考えることじゃない。だけど、気になるんだ。多分、なにも知らなかったんだろうな、ただただ男が求めるままに生きてきたのかって。
いや、本当は自分でもその男との関係を必要としていたから、照れ隠しだったのかもしれない。俺のためだけって気はしなかった。体の弱い母親はもう生活に疲れきっていたんだろうな。無理もない。とにかく、俺には性の臭いのする記憶じゃないんだ。
その男は母親と俺とがと二人で住んでいる碑文谷の家には来なかったな。その碑文谷の家、オマエもよく知ってるだろう、あそこ、その男が買ってくれたんだ。そう母親が言っていた。自分にとっては神様なんだなんて。だから、あの家は俺たち親子にとっては特別のものなんだ。ただの不動産じゃない。
もう俺も高校生だった。どうして赤の他人が母親に家まで買ってやるのか、ぼんやりとはわかっていたさ。だから早く社会に出て働いて母親を楽にしてやりたい、なんて思っていた」
「そうだったのか。そういえば、オマエ、大学には行かないみたいなこといってたよな。
それから、悪童仲間がタバコを吸ったりしているのにも、嫌悪感を剥き出しだった。親の金でタバコか、って」
「母親は男とは碑文谷の自宅とは別の場所で会っていたらしい。それも男が持っていた家だ。ま、その男はそれほど財産を持っていたってことだ。ほんとにたまにだが碑文谷の家に来ることがあって、そのときに俺の顔を見るとなんだかうれしそうだった。自分のところには子どもがなかったらしいからな。俺の成長ぶり見たかったのかもしれないな、ひょっとしたら俺が子どものような気がしたのかもしれないなんて、後から思ったよ。
母親との関係を世間から隠さなくちゃならない理由があったんだろうな。今ふうに言えば不倫か。
死んだとき、母親には碑文谷の家と暮らしにこまらない金が入るように貸家をいくつか残してくれていたそうだ。立派な奴なんだなあ。男の人生って、そうでなくっちゃいけないっていうことかって、俺は思った。もう商社は辞めて野心満々、不動産の商売を始めていたころだけど、いや、だからこそ、そう思った。
そういえば、あの男はなにの商売であんなに金を持っていたんだろうか。いまでもわからない。母親は葬式に行ってない。俺は、オマエと飲んだくれていたんじゃないかな。
あ、済まん、済まん。こんなこと、相談と何の関係もないことだった」
「いいや、大ありだ。
俺はオマエのお母さんがとっても素敵な女性だったのも、子どもながらよく覚えている。それに碑文谷の家も。小さな、瀟洒なって感じのとこだったよな。そこに太り肉で色の白い、肌のきれいな熟れはじめた女性が住んでいた。
そうだったのか。そんなことがあったのか。体が弱かったなんて、あんなふくよかで魅力的な体つきの女性からは想像もできなかったなあ。オマエの母上について不謹慎な言い方だがね。
オマエはその老紳士にウェストで会って、昔のことを思い出したんだ。お母さんの苦労を思い出した。オマエを育てるためにお母さんがなにをしてきたのか、なにを諦めなければならなかったのか。
オマエが義理立てするほどの男がいて、今のオマエがいる。
もしその男がオマエならどうしたか。
オマエはそう思ったってことだろう。つまり、あの男ならきっと墨田のおばちゃんの株を買ってやる、って」
高野は黙って大きくうなずいた。
「高野。オマエは墨田のおばちゃんの株を買え。
なぜなら、墨田のおばちゃんは他人じゃないから。昔があって、今の自分がいる。自分のかかわった限りのことに、自分でできることをする。それをオマエは強く感じたんじゃないのかな。
だから、オマエは墨田のおばちゃんの株を買うことにした、とこうだろう?」
「そう見えるかのか。そうかもしれん。きっとそうだ。
俺には、ほとんど言葉をかわしたこともないあの男が本当は心の父親なのかもしれない。もしその父親がいたら、俺に『なにをためらっているんだ』って叱ったろうと思うんだ。『俺は、やるべきほどのことはやってから死んだぞ』ってな」
「そういうことだな」
といってから、大木はさらに続けた。
「なんにしても譲渡承認請求ってことになるな。
譲受け人はオマエの会社ってことにでもするか。碑文谷土地建物かな」
大木は高野の財産については詳細を把握している。
「碑文谷土地建物なる会社から譲り受けたいって通知をもらった墨田鉄工所では大騒ぎだな。すぐにその会社が、突然あの伝説の男、高野敬夫のものだとわかる。そいつが藪から棒に株を取得したいと申し入れてきたってわけだからな。こりゃてっきり乗っ取り、でなきゃ、たちの悪いゆすりだってことになる」
高野が顔を曇らせた。
「ゆすり?なにをバカなことを言ってるんだ。
違う。俺は」
「分かってるさ。だが、この世にそんな株を理由なく買うやつはいない。
目の前のおばさんが気の毒だから助けてやりたい、だから自分の金をドブに捨てるってのは、今の時代の常識のなかにはない。
常識に満ちた墨田鉄工所の社長と従業員たちは、高野敬夫なる男の出現に驚き、敵意を持つことになるな。理の当然だ」
(4章へ続く。最初から読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html