『日本解凍法案大綱』6章 社団法人 その4
牛島信(弁護士)
ただ、たぶん70までは、って自分に安心させるのさ。未だ1年半あるって。
つまり、もう1年半しかないかもしれない。そんなこと、信じられるか。
俺は死の床で後悔したくない。死が訪れたとき自分の人生に後悔の思いだけで死にたくない。後悔はあるに決まっている。でも、あんないいこともあったよな、ともかく終わりだ、と自分で納得したいんだ。
死が休息だなどとは思っていない。
死は一切を断ち切る重大事件なぞではない。切れた向こうにはなにもありはしない。一切が消えるのだ。暗闇に吸い込まれて消えるだけだ。
いや、死なんてない、俺が死んでいくだけだ。俺は行って、他の奴らは残る」
「そうかもしれん。しかし、俺には露と生まれたばかりにオノレが干上がるのを感じつつ過ごしている。その間はほんの瞬間だっていうが、これでけっこう毎日々々骨を折らされてるんだがな」
大木の本音だった。高野は、
「そいつはオマエが現在も少年そのままの人生の野心家だからさ。だから骨を折らずにいられない。哀れなものだ。
おれはオマエと違う。少なくとも今は違う。
俺はな、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ。そういう人間になりたかったんだ」
「ほう、今度は西郷か。じゃ、オマエは失敗したわけだ。あんなに大量の金をつくっちゃったんだからな」
「そのとおり。俺はそこまでの男でしかなかった。金に執着した。
俺にとって大事だったのは、この自分とほんの少しの周囲の人々。その外側の人々ははるかに遠い世界にいるらしい無縁の人々だ。こちらがうまく操作しようとしたところで旨くいくどころか声が届きもしない。つまり、金を介した関係以上ではあり得ない人々だ。金が大事だという結論になる。
しかし、俺は無縁ではあってもそうした人々が厳に存在していると知っている。実はそれが指呼の間、目の前にいたのだとわかれば無縁、無関係で生きることはできなくなる。
俺は、見ないで済んでいればそれで良かったのかもしれない。だが、なぜか知らんが目に入ってしまった。孔子があえいでいる牛を見たようにな」
「オマエって奴は、昔から変わった奴だったよな。
死んでしまえば同じで、生きている間こそ、腹が減ってるとか寒いとかかが大事なんじゃないか。人は死ねばゴミだ。生きて、体が不自由になれば病苦は耐え難いってことになる」
「だから江藤淳は自ら処決した。ヘミングウェイは鉄砲をくわえた。
しかし、ホーキングは生きている。
体を大事にすることと死とは全く別のことだよ。簡単にコロリと死ね、はそれだけのこと。そうは行かないから問題なのじゃないか。
俺はオマエが笑うほど定期的に健康診断を繰り返す。オマエと違って暇だからな。おかげで2年前に甲状腺の癌が見つかった。簡単に処置して、なにごともなかったかのように生きている。酒も飲む。飲めば酔う。酔って眠る。
しかしだ。いずれ死ぬ身、そう遠くない未来に死ぬ身だってことを改めて意識してみる。新聞を見ると2、3年前と違って死亡欄が気になる。65を過ぎたときには未だよかった。どういうわけか66になった翌年の正月からいけなくなった。それまでは死亡欄を見て、知り合いを探す。いれば、ああ、あの人も逝ったのかという程度のことだったのだ。
でも66の正月から、知り合いかどうかは二番目で、そんなことより見も知らぬ人が「いくつで死んだのか」に目が行く。そして心のなかで指折り数える。80を超えている人の死亡記事だと安心する。未だ先があると思うからだ。でも、そいつも怪しい。考えてみれば、80まで12年だ。いや、正確にいうと11年と少し。そのうち半分は元気でいられるだろうかと思い惑う。今と同じように元気でいられるのは、そのまた半分とすればもう何年もありはしない。
考えたって仕方がない。ハイヤームのように、『酒をのめ、さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう。今さえたのしければよい――人生の目的はそれ』
そうは行かないという声が心のなかで響く。今を楽しめるのは、サロンのブランドブランというシャンパンを飲めるのは、最大限の注意を健康維持のために払っているからだ。俺の健康は旨い酒を飲み続けるためだ。
でも今の時代、時勢に気配りをしないとな。株も不動産も、値上がりしては暴落する。土地もビルも、周囲が変われば価値がなくなってしまう。資産があったところで、毎日のように油断無く警戒していなければならない。儲けようというのではない。減っては困るからだ。だから他人任せにはできない。金があるのは哀れなものだ。自分の金の奴隷だ。
ハイヤームの時代なら、荘園でも持って安心できたのかもしれん。今は違う。この瞬間にも俺の宝物は鉛になろうとしているかもしれない。早く処分して他のものに換えなくてはいけない。
性分かもしれんがな。まあ、それでも借金がないからそんな程度で済む。
確かに、ドリンクタイムなんて称して悦に入っていた。6時からは酔って過ごす。60を過ぎてからのことだ。忘れた。酔えばそのままベッドに入るから、夕方から後には人生の時は停まっている。酔ってなにをするのでもない。幸い英子は料理が好きだから、俺一人のために、ああでもないこうでもないって、毎日張り切っていてくれる。いつまでのこの幸せかわかない。俺が歳をとるのと同じに英子も歳をとる。来るものはいつか来る。
6時、シャワーを浴び終わった俺に、はテーブルに座ってからのシャンパンの栓を抜く音がいつもなにかの合図のようだった。
酔ってなにをするのか?酔いを続けるだけだ。
12世紀のペルシアの詩人は、今を楽しめなんて言うが嘘だよ。今はすぐに消える。消えれば過去でしかない。次の今はもう来ないのかもしれない。桜を観てもいつも上の空、金儲けに忙しくって、ま、来年もあるからなんてその場限りのことを自分に言いきかせていたのが、66の正月からは、もうこの次ぎの桜はなくなるかもしれないと思い始めた。
66のときの桜をよく覚えている。以前のように千鳥が淵だ、九段だと車で巡り歩いたりはしなかった。ただ、芥川が言っていた「桜がボロのよう見えた」という言葉だけが気になってな。この俺の目にも実際そう見えたんだ。以前、桜吹雪を愛でたことは、もう脳のどこかにある記憶でしかない。青山通りにあった虎屋の本店の前、豊川稲荷の前の横断歩道の上に積もった桜の花びらが雪が風に舞うように身を翻しながら右に左に流れて行くのに行き当たったことがある。なんて美しい瞬間なんだと思った。しかし、最近では同じ光景に行き当たっても、ああこんなことが昔あったなという気持ちにしかならない。
すると、なによりも、自分が虚構を構えて生きている事実に突き当たる。毎日々、自分に対して嘘ばっかりついて生きていることが嫌になったってことだ。
オマエを野心家なんて言ったけど、人間、なにかを達成しようと思うから虚構を構えるのさ。俺もいつもいつもそうやって生きてきたけれど、もう先は大して残っちゃいない。明日の保証なんてありはしない。
若いころはきれいでもない女に、キレイだねとささやきかけた。今でもないじゃない。いや、もっとひどくなっているかもしれない。好きでもない女性に、愛していると目を見つめながら言いつのる。なに、寝たいからさ。それも、もう性行為が十分にできる体じゃなくなっているのにな。
悲しい話だが、赤い靴をはいたスズメは100になっても赤い靴を履いたまま踊り続けないではいられない。
女のことなんてのは一例にすぎん。
ビジネスのため使っている言葉ってのが、近頃ますます嫌悪感が募ってきてならないんだ。プレゼンとやらをやっていると、相手をその気にさせようと下心を隠してしゃべくりまくる。それが終わると、その瞬間に、
『外道の言葉しか知らないのだ、ああ喋るまい』
とツバを吐きたくなることがよくあるんだ」
大木が微笑んだ。
「『外道の言葉』か。50年前に読んだ小林秀雄訳のランボーがまだオマエのなかに生きているってことのようだな」
いつもの二人のやり取りだった。高校生のときから何十回、何百回繰り返したことか。そのころのこと、大木の家の2階で話し込んでいた時など、大木の母親が「おやおや2階でラジオがつけっぱなしなのかと思ったよ」と笑ったほどだった。二人は自分たちの未来に熱中していたのだ。二人とも17歳だった。
大木は高野の挑発的な言葉には答えず、淡々と先ほどの話の先を促した。
「もう一回聞くが、なんでそんなことをしようっていうんだ?なんのため、なんのつもりなんだ?十字軍でもおっぱじめようってのか?」
「言ったじゃないか。目の前に気の毒な人がいると気づいたからだ」
「だが、気の毒なのはオマエの目の前にいる人だけではない。孔子の弟子の言ったとおりだ」
大木は息を吸って息を止め、しばらくしてから小さな声とともに吐いた。大木が一呼吸を終えるのを待って高野が口を開いた。
「大木、墨田のおばちゃんの話を聞いて、俺は全国にいる墨田のおばちゃんたちのことを考えた。そしたら胸が痛くなった。
どうしてなのか。おかしな話だ。
この世の中には胸が痛くなることなんて、いっぱいあふれている。それなのに、この俺は墨田のおばちゃんが日本中に何人いるだろうかと思って胸が痛くなる。
なにもこの俺が、赤の他人の心配をする必要なんてありゃしない。
だがな、どういうわけか俺は、俺を頼ってきた第二、第三の墨田のおばちゃんのことが気になる。何人かは相続税の心配をしている。ほら、オマエが教えてくれた大日本除虫菊の株主だった男の話だ。墨田のおばちゃんからその話を聞いて眠れなくなってしまったという善男善女が現にいるんだ。
しかし、考えてみれば相続税の心配をするなんて、会社に資産があるってことだ。紙切れの株のせいでとんでもない額の相続税を払うはめになって、生まれたときから住んでいた家をとられてスッテンテンてことになりかねない。子どもたちはまだ学校に行っているっていうのに、だ」
「そのとおり。オマエの言っていることは正しい。全国に大日本除虫菊の少数株主だった男と同じ、空恐ろしい立場におかれた人間がどれだけいることか。
高野、オマエのやることは人助けになる。
人間は利己主義の塊ではない。利他は人間性の重要な一つだよ。
孟子が言っている。『幼児が井戸に落ちようとしたら誰が助けないか』って。
惻隠の情だ。
最近の研究では、猿ですらもそうだというじゃないか。
世の中のためになる」
「おれはすれっからしの、ソフィスティケートされ切った人間だから、お涙頂戴ものでは心の表面がそよそよと波立つだけなんだよ。
まあそれなりに涙がにじんでくる。そのとおり。俺も暖かい血の通った人間だからな。でもそれ以上じゃない。ビジネスで鉄火場をいくつも渡ってきたからな」
「ああ、そうだった。
人それぞれ、胸が痛くなる対象ってのは違うものだろうよ。
オマエはオマエの胸が痛くなるものに行き逢ってしまった。それも68歳にもなって」
「そう。そこへ有能な弁護士の友人が塩をすりこんでくれた」
「ああ、そうだ。そのとおりだ。
悪かったのかな。
しかしな、高野。胸が痛むってのは、ひょっとしたらそれだけでも幸運なのかもしれない」
「幸運?
なんとでも言え。
ただ、俺は真剣だよ。
俺は俺にできることをする。
樹を植える。命が尽きる日まで、一本ずつ。
ただし、俺が植えた樹が大きくなって幹を伸ばし葉を広げるようになるまでには一人の一生以上の長い時間がかかるってことだ。樹だからな。かまわん。俺はその樹を育てている途中で死にたい。なにせ、死の当日まで植え続けるんだ。終わらないのは理の当然てことではある。
こいつは賭けなんかじゃない。かならず勝つからな。賭けにはならない。ただ、結果を見ることはできん。朝に晩に樹の投げかける陰で、散歩に疲れた身体を休めるって日は俺にはやってこない。俺が生きている間にどこまで大きくなるかもわからん。しかし、誰かが植えて、忘れずに水をやらなきゃ樹は根付かない、育ちもしない。育っても途中で枯れる。
68歳の、さんざん悪事を重ねてきた男には悪くないおとぎ話じゃないか。
俺は、自分にできることをする。目の前で起きるアンフェアなことを我慢しない」
「樹を植えるか、いい話だ」
大木が小さなため息をつくように、高野に聞かせるともなくつぶやいた。高野は自分の話に夢中になっている。
「生まれてきた以上、生き物は必ず死ぬ。死ぬ人間にとっては、生きている間の生きている甲斐ほど大事なものはない。
金があっても生きている甲斐にはならない。愛した女性も慣れてしまえば甲斐ではなくなる。仕事すらも生きている甲斐でなくなってしまう。人はなににでも慣れる。恐ろしいほどに慣れてしまう。
いまの俺は金があるから仕事をしないでも生きていける。金を増やすことは続けている。減らさないためだ。減るんじゃないかって不安なんだ。赤い靴の雀さんだ。だがもう飽きた。
だから、生きている甲斐が欲しい」
「贅沢な話だが、そのとおりだな。
自分の定義し直しか。そのとおりだ。うまくすれば昔の悪事は消える、ってか。便利でもある。面白いお話しだ。
「ところで奥さんはご承知なのか?」
「英子はこのことには関係ない」
くぐもった、しかし断固とした声だった。何人の容喙をも許さないという意志がむき出しになったような声だった。死体のように微動だにしない、冷たい響きだった。大木は鼻白む思いがした。高野には高野の、あれほど惚れた女房であっても決して分かち合えない独りきりの世界があるに違いない。たかだか長い間の付き合いだけの友だちなどに立ち入ることのできよう筈もなかった。大木は話題を変えることにした。
「で、俺になにをしろと?」
「手伝ってくれ。オマエは弁護士なんだから」
「オマエ、こいつはどこまでオマエを連れていくかわからんぞ。
非上場の会社の話になれば、裁判所だけでは済まなくなる。
中小企業の盛衰は日本の浮沈にかかわる。
オマエは日本中の同族会社を解凍してやろうと言っているんだ」
「解凍?」
「そうだ。今、上場会社を含めて360兆円の内部留保がある。そのうち150兆は非上場会社、つまりは同族会社だ。その経営者の大半はオーナー経営者で、少数株主のことなんか無視している。
そいつに火を点けて回ろうって言ってるんだぞ、オマエは」
「そんなつもりはない」
「いや、そうなる。
少数株主の株が売れるようになれば、経営者は安閑としていられない。
経営者に改善を求めると言ったばかりだろう。
そいつは、眠り込んでいる大半の経営者に刃を突き付けることになるんだ。
最後は、非上場会社の少数株主に会社へ買い取れと言う請求権を与えるという話に行く。
政治だ。
あ、この話、輿水先生なら分かるぞ。
日本の非上場会社に凍り付いている150兆円の内部留保を流動化する話だからな。
いや、もっとだ。含み益を実現しようっていう話だ。
そのためには、少数株主に買い取り請求権を与えるのが一番効果的だ。
輿水先生なら、『失われた20年を取り返す』なんていって、日本解凍法案を通してくれる」
「日本解凍法案だって?なんだか物騒な話だな。まるで日本改造法案大綱みたいだ。そんな話は俺には関係ない。俺は、目の前の少数株主のために役立ちたいだけだ」
(6章終わり。次回から7章「全国の墨田のおばちゃんたち」初めから読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html