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.国際  投稿日:2017/2/16

『1984年』米で売上1位のわけ しぶとい欧州の左翼 番外編


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

米国で今、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』(邦訳はハヤカワ文庫)が急激に売り上げを伸ばしているという。1950年代に起きた核戦争を通じて、いくつかの大国による分割支配の様相を呈するようになった世界を舞台に、独裁国家で生きねばならぬ人たちの悲哀を、いかにも英国の作家らしく皮肉に満ちた筆致で描いた小説である。

個人的なことを少し語らせていただくと、この年、すなわち1984年に私はロンドンで英語を学んでおり、教材としてもよく取り上げられていたので、内容や執筆の背景について、平均的な日本人よりはかなり詳しい。後に原著も読破した。

『1984年』というタイトルは、執筆された1948年の年号を入れ替えたものだとされている。日本でもそうだったが、戦後の混乱がまだ収まっていない時期であった。その当時、英国は労働党政権下で、社会主義的な政策が実施されていた。戦時経済を支えてきた累進課税と配給制度は維持され、それに加えて、「壁紙の張り替えにも政府の許可が必要」とまで言われた、厳しい統制経済が実施されていたのだ。

評価は様々であろうが、この政策のおかげで戦後英国の立ち直りが早まったことは事実である。もう少し具体的に述べると、第一次世界大戦後のドイツで見られたようなハイパー・インフレーションは回避されたし、ほぼあらゆる資材が不足している中、統制のおかげで100万戸もの公営住宅の建設が可能となった。

少し話を戻すと、英国労働党が政権の座に就いたのは、1945年7月の総選挙においてである。第二次大戦は未だ終結していなかったが、ナチス・ドイツはすでに降伏(同年5月)しており、日本の降伏も時間の問題と考えられていたので、この選挙はまさしく、戦時中の挙国一致体制を解消し、あらためて戦後英国の行き方を問うものであった。

この選挙、下馬評では保守党が断然有利とされていた。なぜなら、戦時下で大いなるリーダーシップを発揮し、救国の英雄と称されたウィンストン・チャーチルが選挙の顔となっていたからで、戦勝祝賀ムードに乗るだけで勝算が成り立つと考えられたのだ。実際、労働党の側でも勝利を期待していなかったと言われる。

しかしながら英国の有権者は、新たに「ソ連の脅威」を語り始めたチャーチルよりも、福祉国家構想を掲げた労働党に票を投じた。前述のように、戦時統制経済をうまく平和目的に変化させていった労働党の政策によって、後に「ゆりかごから墓場まで」と称される福祉国家の原型が完成したことは事実である。

一方では、そうした実績を残しながら、1950年2月の総選挙では敗れた。福祉国家建設の陰で「平和の配当」が不充分だと考えた中産階級の票が保守党に流れたことが最大の原因とされている。これもまた事実なのだ。

ジョージ・オーウェルの発想の根底にあったものは、このまま英国において社会主義的な政権が続くと、いずれはソ連邦のような「偉大な指導者」が独裁的権力を振るう国になってしまうのではないか、という懸念であった。これには異説もあって、この小説の構想は1944年にはすでに練られており、舞台となる独裁国家は「ファシズムが勝利した世界」に他ならないと見る向きもある。

いずれにせよ、この小説が出版され、各国語に翻訳されていったのは冷戦時代で、米国においては反共の宣伝にしばしば利用されていた。

そのような本が今、どうして米国で売り上げを伸ばしているのか。

トランプ大統領のことを、社会主義者あるいは左翼だと考える人はまずいないだろうが、彼が情報を発信する際の手法たるや、まさしく『1984年』に描かれた架空の独裁国家における「ニュースピーク」(注1)のごとし、と受け取られているのだ。

すでに日本でも有名になった例としては、オバマ前大統領の就任式と比較して、観衆が圧倒的に少なかった、という報道に対して、ホワイトハウスの広報官は、「それは事実ではない。史上最高の人出だった」と語った。しかし、翌日の新聞に掲載された写真で、人出の差は一目瞭然で、当然ながら広報官に対しては「嘘つき」というブーイングが沸き起こった。これに対して大統領の側近が、「彼は嘘はついていない。オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)を述べたのだ」と語って、今度はこれが流行語になる、という現象を招いた。

『1984年』の巻末には、ニュースピークに関する解説が載っているが、要するに、物語の舞台である架空の独裁国家においては、言語の意味までもが権力によって恣意的に変化させられ、教育や報道によって国民に浸透させられている、という設定なのだ。変化の具体例として、たとえば英単語のfreeから、政治的・知的「自由」の意味は消されている。除草剤によって雑草からfreeになる(雑草が無くなる)といった意味しか残されない。

このようにして、言語までもが体制を支える道具と化してしまうのが、独裁政治の本当の恐ろしさだと、オーウェルは喝破したのである。

これまた日本でも広く知られるように、トランプ大統領という人は、自分に批判的なマスコミを「嘘ばかり」と決めつけ、ツイッターなどを通じて自身の主張を発信し続けている。

これについては公平に見て、マスコミの側にも大いなる責任があることは否定できないが、だからと言って、トランプ政権の危険性も決して過小評価してはならない。独裁体制は、決して左翼の専売特許ではないのである。

(注1)ニュースピーク(新語法、Newspeak)

ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に描かれた架空の言語。全体主義国家が国民をコントロールし、体制を守るために作った。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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