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.国際  投稿日:2017/1/26

「ニクソン許すまじ」 しぶとい欧州の左翼 その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

1971年8月15日、米国のニクソン大統領はTVを通じて、新たな経済政策を発表した。主たる内容はインフレーションの抑制、景気浮揚策、そしてドル防衛で、三本の矢とは呼ばれなかったが、最後のドル防衛策は、世界に衝撃を与えた。具体的な内容をかいつまんで述べると、ドルと金の交換を停止し、貿易赤字縮小のための輸入課徴金制度を新設、同時に各国に対して通貨の切り上げを求めたのである。

たしかに、当時の米国経済は何重もの困難に直面していた。まず1960年代後半からベトナム戦争が激化し、軍事費の増大が財政を圧迫するまでになっていた。さらに、ドルはいつでも金と交換できる兌換券であり、それゆえ基軸通貨の地位を確立していたのだが、実際には金準備高を大きく上回るドルが市場に供給された結果、インフレーションを抑えられなくなってきていた。それでいながらドルが実勢価格よりも高い相場で固定されていたため、相対的に外国からの輸入価格が安くなってしまい、貿易赤字を拡大させていった、という具合である。

そうした事情があったにせよ、基軸通貨であるドルを持つ国の大統領が、突如このような発表をするというのは、いかにも乱暴な話だった。なにしろ、議会への根回しさえなかったのだから。当時、米国が最大の貿易赤字を計上していた相手国とは他ならぬ日本で、このため、敗戦の日として日本人が忘れようはずもない、8月15日がTV演説の日に選ばれたのは、やはり「当てつけ」ではないか、という話が、まことしやかに広まったほどだ。

事実は、1971年のこの日は日曜日で、なおかつ夏休み中であったことから、衝撃も最小限にとどめられるだろう、という「配慮」であったらしいのだが。このニクソン・ショック(日本では「ドル・ショック」という呼称の方が広く知られている)が世界経済に与えた影響は、たしかに大きかった。

当時のEC諸国は、翌16日から為替市場を閉じてしまい、緊急の蔵相会議を招集して対策を協議したが、もはや手の打ちようがない、ということで、相次いで変動相場制に移行していった。ここで、ドルが基軸通貨であることの意味を、もう一度確認しなければならない。たとえ米国が関与しない貿易でも、支払いはドルで決済され、ドルをどれだけ貯め込んでいるかが、外貨準備高として、その国の富を測る尺度だったのである。

言い換えれば、ニクソン大統領の演説の結果、各国が頑張って稼いできたドルが、一挙に目減りしてしまったのだ。このことはまた、各国の通貨が相対的に供給過剰に陥ったことを意味し、インフレーションを招いて家計を直撃した。当然ながら米国に対する怨嗟の声が広まり、同時に、「通貨や金融といったものは、より強力な管理下に置かれなければならない」という主張が、説得力を持って受け取られるようになった。

読者ご賢察の通り、1970年代後半にヨーロッパで左翼政党が大いに勢力を伸ばし、英国の労働党はじめ主要国で相次いで政権を手にするまでになった背景が、これである。同時に政財界には、ドルに頼らない市場経済を実現できないものか、といった考えを抱く人が増え、やがてこれがヨーロッパ統合、共通通貨ユーロを実現させる原動力となって行く。前回紹介した初代EU委員長ジャック・ドロールは、こう語った。

「米国の気まぐれなドル政策、強大な経済力を持ちながら国際的責任を果たそうとしない日本、そして第三世界に蔓延する貧困。これらを止揚する原動力となり得るのは、統合されたヨーロッパを置いてない」

しかしながら日本は、そうした方向には進まなかった。米国との関係を見直すことはせず、左翼政党が大きく伸びることもなかった(共産党が議席を増やした事実はあるが)。ドル・ショックの際、市場を閉じたヨーロッパ諸国と違い、日本は市場が開くと同時に、世界中から売り浴びせられたドルを、1ドル=360円の固定相場のまま買い支えた。

これが外貨の大幅な目減りと、円の大放出の結果としてのインフレーションを招いたところまでは、ヨーロッパ諸国と同様で、しかも前述のように、米国は最大の貿易赤字を産む相手である日本を明らかに敵視していた。

ところがここに、田中角栄という政治家が登場する(1972年7月、首相就任)。彼は「日本列島改造論」を掲げ、太平洋側と日本海側の格差解消という美名のもと、上越新幹線や関越自動車道などの大規模公共事業を興し、マスコミが「狂乱物価」と呼んだほどのインフレーションと引き換えの形ではあったが、どうにか景気を後退局面から救い出した。

グローバル経済に明らかに乗り遅れ、危機管理能力に問題がありながら、復元力は異様なほど強いという日本の資本主義、そしてそれに支えられた自民党政治が、左翼政権誕生を阻んだと見て間違いないだろう。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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