「日本解凍法案大綱」10章 株主総会 社長の首を挿げ替える その1
牛島信(弁護士)
大木の部屋から大木の大きな声が聞こえていた。
「高野さん、こんどは三津田沙織っていうおばあちゃんを助けてやるんだそうだ。
『少数株だけど買ってくれ』という頼みをしてきてくれた人がたくさんいる。その中から、高野さんなりの基準で選んだ方っていうことだ。
目の前の気の毒な人たちをみんな助けることはできないから、一人ずつ、できることをする。なるようになるんではなくて、できることをできるだけやる。それ以上のことは人間の力の及ぶことではない。どこまで行けるか、どこで止まるかは考えない。目の前の人を助ける。それが高野さんのこの社団を運営するうえでの信条なんだな。
次につながる方というのがどうやら基準らしい。
高野さんらしい。数珠繋ぎってわけだ。とにかく、たったいま高野さんから連絡があった。
向島運輸という会社がターゲットだ。三津田沙織さんは向島運輸株式会社の創業者である三津田作次郎という方の奥さんで、株を12%持っていらっしゃる。」
大木の大きな机の向こう側に、パートナーの西田弁護士と若い桃井弁護士が立っていた。どちらもメモ用にイエローパッドという名のアメリカ風の弁護士用のレポート用紙のようなものを握って離さない。
「高野の話では、墨田のおばちゃん、いや川野純代さんのお友だちなんだそうだ。ということは、高野さんのご母堂の同級生でもあるってことだ。なんとも狭い世界だな。
墨田、向島か。まるで荷風の世界だ。
永井荷風という小説家は、昭和11年、1936年、あの2.26事件のあった年に『濹東綺譚』というタイトルの小説を書いている。向島の狭斜の巷に咲いた美しい、可憐な26歳の女性の話だ。書いたご当人は57歳だがね。
『ねえ、あなた。わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない』と荷風らしき小説家に話す場面があったな。荷風は取り合わないんだがね。
もっとも、高野さんの持ってきてくれた三津田沙織さんの話は、仕事だ。
ヒロインの26歳どころか、川野純代さんと同じ歳だから88歳だ。88歳の小学校の同級生同士ってわけだ」
「キョーシャって、なんですか?キョーシャのチマタって?」
好奇心に満ちている桃井弁護士が大木弁護士にたずねた。
「ああ、そうだよな。いまどき狭斜なんていっても、君ら若いもんには何がなんだかわからくて当然か。
ま、いま風にいえばフーゾクのことだ。
言っとくが、荷風の愛した娼婦たちの世界とは別の、職人や零細企業主の世界が向島にはあったのさ。その世界が、アメリか相手の戦争が終わって復興がはじまると活気を帯びた中小企業の世界に大変身して大きくはばたく。
小学校もあって、たとえば川野純代さんも三津田沙織さんも、2.26事件のあったころに小学校に入学したってことだ」
「そのころは、小学校と呼ばずに国民学校と呼んでいたんじゃないんですか?」
こんどは西田弁護士が声をあげた。目が輝いている。
大木が大げさに右腕を目の前で振ってみせた。
「よく知ってるな。でも、そいつは1941年からだ。
そうか、そうなると、川野さんや三津田さんは小学校に入って国民学校と名のかわった後に卒業したのかもしれんな」
そこで一息つくと、大木は、
「それにしても、沙織さんという名の女性が、じつは88歳のおばあちゃんてわけか。僕なんかにとっては、沙織っていうと南沙織で、とってもキュートな10代の女の子のイメージなんだがなあ。大阪で万博があったころだものな。1970年、昭和45年、東京オリンピックの6年後。こっちも歳をとるはずだ」
大木が二人を部屋に呼んで話を始めたところだった。大木の話はいつも脱線する。脱線するたびに、若い弁護士たちは思いもかけない風景を見せられる。20代後半の弁護士はバブルすら知らないのだ。アメリカとの戦争など、遠い世界のことでしかない。
社団が発足して1年を超えた。もう、毎週のように新しい案件が入ってきていた。西田弁護士の下でも、30人を超えるアソシエートが6つのチームに分かれて忙しく働いている。土日を返上することも珍しくない。
高野理事長は、なにかあると直ぐに大木に連絡を入れる。大木はただちに、プロジェクトにかかわっている4人のパートナー弁護士のうちから担当パートナーを決めると内線電話を入れる。その電話で相談してどの弁護士に直接ハンドルしてもらうかを即決するのだ。案件を直接ハンドルするのは、若い弁護士たちの役割だった。2分後には二人の弁護士が大木の机の前に立っていることになる。
桃井幸助弁護士は西田正俊パートナーのチームに所属している。弁護士になってから未だ3年にしかならない。しかし、事務所に入って以来、一貫して非上場の会社の仕事を主にやってきていたから、もうすっかり一人前の感があった。それもそのはずだった。リーダーとして、いっしょに働く1年生、2年生の弁護士サブチーム3人を率いていているのだ。
「桃井先生。ウチにいると1年が5年だな。だから、君はもう15年選手ってわけだ。
どうりでデキルと思ってたよ」
大木が陽気に話しかけると、
「はい、自分でもそんな気になってしまいそうで、かえって怖いです」
と素直で率直な返事が、はにかんだ微笑みとともに返ってくる。謙虚さと意欲が同居しているのは西田弁護士仕込みだった。
「向島運輸っていう会社があって、三津田さんはそこの株を12%持っていらっしゃるのは言ったとおりだ。
運輸と社名に入っているが、もうとっくに運輸事業は廃止していて、実際はビルや駐車場の賃貸業を営んでいるんだそうだ。
なんでも、墨田のおばちゃんの小学校の同級生だったうえに、亭主同士は商売仲間だったらしい。墨田のおばちゃんから社団法人のことを聞いたんだな。世間は狭いね。
『私の株も買ってください』と来たそうだ。
川野さんが高野さんに墨田鉄工所の株を2億5000万円で買ってもらったと聞いたんそうだ。
つまり川野さんが高野さんの社団法人の話を吹聴したってことだ。
『どうにもならないゴミだと思っていたのが、500万もの値段で売れたのよ。それだけでもありがたいって思ってたら、容子ちゃんの坊や、敬夫クン、それを2億5000万にしてくれたのよ』って、川野さんが鼻を膨らませて、唾を飛ばしながら自慢している姿が目に浮かぶよ。まったく、最近の年寄りは元気そのものだな」
「裁判所が川野純代さんが想像もしなかった値段をつけてくれました。べつに高値というわけではありません。墨田鉄工所という会社の価値がそれだけあったということです。起こるべきことが裁判所のお蔭で起きたというだけのことです」
ふっくらとした顔にメタルフレームのメガネをかけた西田弁護士が興奮を抑えつつ冷静な声を出した。辻田弁護士といっしょに川野純代の株の件を担当していたのだ。
西田正俊弁護士は弁舌爽やかな、いかにも頭の切れ味を感じさせるといったタイプの男ではない。ふつうといってよい。それが、弁護士としての仕事の場では信用を生みだす。
弁護士は不思議な職業だ。超高級ナイフのような切れ味で喋りまくったところで、滝の水が勢いよく流れ落ちるようにとうとうと論理を展開してみせたところで、相手が話している中味を信頼できると受け取ってくれるとは限らないのだ。弁護士にとって相手を煙に巻くのは仕事の一部に過ぎない。かえって反発を買うことも多い。殊に、裁判官のように自分の能力に自信を持っている人々を相手に訴えかけるときには、弁護士の才気走ったところは癇に障るだけのことに終わることになる。
その点で西田弁護士には人を惹きつける天性のものが備わっている。大木はそう思ってきた。
西田弁護士とそのチームが三津田沙織に来てもらって事情を聞くと、どうやら彼女は向島運輸の株をめぐって大変な状況に置かれていることがわかってきた。
もともと向島運輸という会社は三津田沙織の夫だった三津田作次郎が、アメリカとの戦争が終わってすぐに創業した会社だった。創業時には、仕事の見込みはあったものの資金が絶対的に不足していて、近くで八百屋をやっていた伯父など親戚や友人たちに出資を頼んでやっとかき集めた資金での出発だった。
昭和35年、1960年ごろからの高度成長期、鉄やセメントを中心とした製造業の勃興にともない、運輸業は伴走者として必然的に伸びていった。向島運輸の業績も順調だった。もちろん、墨田鉄工所も向島運輸の上得意の一つだった。
その子どもたち、小学校の同級生は、20年経ったのち結婚し子どもを持つ歳になっても相変わらず自分たちの生まれ育った土地に住み続けていて、その場所に根付いた小さな会社、たとえば墨田鉄工所や向島運輸の社長夫人同士になっていた。だから、子どもができれば自分たちの母校でもある小学校に通う。PTAのお仲間にもなる。地元の神社のお祭りもある。同じ地域に住む者どうしとして、女同士、母親同士の付き合いは途絶えることがなかった。子どものいなかった三津田沙織にとっても、小学校同級生との付き合いは地縁が絶えないこともあって、いつも楽しい仲間のままだった。
80年間以上前から現在まで続く関係なのだ。
沙織の夫の三津田作次郎はなかなかに目はしの利く男だった。1973年に日本を襲った石油ショックに翻弄されたあげく、もう個人企業が法人成りした程度の規模の会社では、運輸業者として顧客の要求する水準の設備投資に追いついていけないと敏感に悟った。1975年、50歳でさっさと手もちの不動産を一部処理して運輸業での借金を返してしまうと、土地にアスファルトを張って駐車場に衣替えしてしまったのだ。
借金のカタをつけるために一部は切り売りしなければならなかったが、相当の不動産が残った。駐車場はとりあえず駐車場のことだった。そこに次々と賃貸ビルを建て、安定した収入源にしていったのだ。不動産賃貸業の始まりだった。
1981年に作次郎は死去した。66歳だった。沙織は56歳にして未亡人になってしまったことになる。夫との間に子どもはなかった。夫の残した会社はビルや駐車場を貸して家賃や駐車料を取るだけの仕事だったから、沙織一人が暮らして行くにはなんの心配もないはずだった。
ところが相続税がかかってきたのだ。顧問の税理士は、土地に価値のある会社だから仕方ありませんねと言って、税務署の評価では3億4000万円の税金になりますと告げた。
沙織は目の前が真っ暗になった。世田谷区の上町に住んでいた姉に相談しに出かけて行った。沙織としてみれば、3億4000万円なら土地の一部を売ればなんとかなるのではないかと思って、そう税理士に相談した。ところが税理士は、いやそれでは売った土地にまた税金がかかりますと言うのだった。沙織にはなにがなんだかわからなかった。
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html