日本の救命教育は世界水準の半分以下~世界が挑戦 市民への統合型救命教育~3
照井資規(ジャーナリスト)
【まとめ】
・日本では非外傷性心肺停止の救命手当教育が主に行われている。
・世界は致命的大出血の止血までを含めた総合的救命手当教育に進化している。
・市民への救命手当教育の普及は間接的な防衛力発揮にもなる。
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この記事はシリーズでお伝えしている「世界が挑戦 市民への統合型救命教育」の「1. 変わる市民の役割」「2. 日本が知らない世界の救命の尺度」の続編である。
現在の日本で「市民による救命法」と言えばBLS:Basic Life Support(一次救命処置)であり病気や感電、溺水、低体温などによる非外傷性心肺停止状態を対象とした心肺脳蘇生法が主だ。BLSと併せてAED:Automated External Defibrillator「自動式体外除細動装置」の整備と使用法の普及が進められている。アメリカ心臓協会(AHA)のTVコマーシャルでは、一般市民向けに心肺脳蘇生法を簡潔明瞭化して「まず救急へ通報、次に胸の真ん中を強く早く押す」だけを強調しているが、日本でもCall Push「通報して胸の真ん中を強く早く押す」と言われるようになった。
▲図 心臓マッサージに伴うリスク 制作:照井資規
非外傷性心肺停止状態の救命手当を実行する際に、ためらう要因として最も多いものが「やり方がわからない」その次は「リスク」である。そこで、救命手当教育を簡潔明瞭化しリスクについても研究がなされるようになった。「ガイドライン」で知られるILCOR(※1)のCoSTR(※2)によれば、心臓マッサージに伴うリスクは肋骨が折れる程度で、致命的なことは起きないことが判明している。図は、心臓マッサージが必要なかった人に心臓マッサージをしてしまったことによるリスクを研究したものであるが、発生率は0~11%で致命的なものは1例も無い。肋骨が折れてしまうのは、肋骨を押すために生じる。解剖生理の知識に乏しいため、心臓のある位置を左胸と思っており、その付近の肋骨を押し込んでしまうことで生じる。心臓マッサージは胸骨を押す。胸骨と肋骨は肋軟骨で接続されるため、胸骨を押せば肋骨が折れるリスクはほとんどない。そこで、「心臓マッサージ」は目的、「胸骨圧迫」は押す場所と教えるようになった。
■ 世界はCall Push からCall CABへ
BLS(一次救命処置)のみ知っていても近年増加しているテロによる、銃創、爆傷、刃物による致命傷などの外傷の救命はできない。日本でも4月から救命止血帯による止血法教育が開始されるが、外傷により心肺停止状態に陥った場合、社会復帰率は1%に満たないため重症外傷傷病者を救命するためには、心臓が機能停止してしまう前に止血を行うことが救命の鍵となる。心臓のポンプ機能を維持できるように、液体循環におけるパイプに相当する血管からの血液の流出を抑えることで循環血液量を維持することが必要だ。そのために、受傷後1秒でも早く致命的な大出血を制御できる知識と技術を市民に普及するためのStop The Bleedキャンペーンが開始されることとなった。同キャンペーン関係者の話によれば、救命止血法の教育は非外傷性心肺停止状態の心肺脳蘇生法教育よりもかなり難しいと言う。
心肺蘇生法はガイドラインが2015年以前は5年毎に、2017年以降は毎年更新されるものの、市民用の方法が大きく変わることがない。手技も胸骨圧迫、気道確保、人工呼吸と少なく、部位も決まっている。使用する機材も感染防護シールドとAEDのみであり、しかもAEDは電源を入れると自動的に音声による指示が流れ、評価・判定も自動的に行われる。また、必要の無い傷病者に電気ショックを与えることが無いように安全機構も組み込まれている。周囲の音声や心電図も自動的に記録されるため事後の検証や実施者の保護の面の整備もされた体制にある。
その一方で、止血法は方法や手順が頻回に変わる上に、手技を適用する身体の部位も様々である。使用する器具や包帯材料も種類が様々であるし、方法、手順、手技、部位、資材の組み合せにより実施されるので複雑多岐に渡る内容について習熟しなければならない。しかも実施する際、AEDのように指示が流れてそれに従えば自動的に実行されるということも無いので、止血は救護者自身の記憶に従って行い、止血効果は救護者自身の技量により左右される。当然ながら記録も救護者自身がしなければならない。心肺蘇生法に比べて教育所要が大であり、識能の質の維持にも相当な手間を要する。少人数単位で指導者が手を取り懇切丁寧に時間をかけて教育をしなければならないし、識能のアップデートも頻回に行う必要がある。そこで、米国では軍隊経験者を教育者として活用することで普及に努めている。救命止血法は戦闘を経験した軍隊により研究され発展したものであるし、その重要性から将兵は、入隊直後から繰り返し、頻回に訓練を受ける。しかも、シナリオトレーニングを積み重ねていくので判断力・思考力も備わっているので教育者として最適の能力を備えているためである。
教育頻度も重要だ。アメリカの救命手当教育の研究では、半年で教育直後の60%まで、記憶や技術が低下することが明らかになった。そこで、アメリカでは会計年度始めである9月に国際赤十字のWorld First Aid Dayなどの機会を活用して救命教育を行い、半年後の3月31日をNSTBD:National Stop The Bleed Dayとして定め、全アメリカ国民が救命について学ぶ日とすることで、国民の救命手当における知識と技術の質を維持することに努めている。
▲写真 ITLS国際会議2018で推奨された様々な止血用救急品 ©照井資規
中央の黒いパッケージは包帯状止血剤(血液凝固促進剤製剤包帯)ChitoSAM™100、その右隣が世界一と言われる救命止血用SAM XT、両隣のタンカラーのパッケージがモジュール型緊急圧迫止血用包帯 OLAES® Modular Bandage(https://www.tacmedsolutions.com/OLAES-Modular-Bandage)一番右端がネックカラーにもなる自在副子SAM®Splint(自衛隊で言うロール副子)
救命手当と言えば、日本ではCall Pushであるが、これでは非外傷性心肺停止しか対応ができない。海外ではCall CAB(「タクシーを呼べ」)で子供でも知っている簡単な言葉で手順を憶える。通報して、
CAB: Circulation, followed by Airway and Breathing
と循環状態から必要な救命手当を判断していく。2011年以前は意識レベル+ABCDEFアプローチと気道、呼吸、循環と手順を教えてきたが、救急医療でもCABと、循環から始めるようになった。健康で重篤な既往症もない、十分に酸素化されている人(高山のような酸素の薄い場所にいない)が銃創、爆傷、刃物による致命的外傷を負った場合、もっとも多い死亡原因は大量出血である。Airway and Breathing(「気道と呼吸の異常」)も生命に危機をもたらすが、受傷後3分くらいは体内に蓄積された酸素で生命を維持できる一方で、致命的大出血は1分で死亡率が50%に達するので、大出血を制御することが最も優先されるためである。
循環状態の評価から非外傷性心肺停止から致命的外傷まで総合的に対処する。循環状態をPump(「心臓の機能」)Tank(「循環血液量」)Pipe(「血管の状態」)で評価し、優先度の高い順に介入していく。心停止であれば「Pump 直ちに心肺脳蘇生」、銃創を受けて血管を損傷して大出血ならば「Pipe まず出血している場所を塞ぐ」というように、迅速に的確に対応していく。救急隊は市民による救命手当を引き継ぎ循環状態の観察からショック4種、心停止、頭部外傷の早期発見に努める。
▲図 救命能力比較「日本のCall Push\「正解のCall CAB」制作:照井資規
世界の救命手当教育「Call CAB」は外傷まで幅広く対応でき、救命能力は日本のCall Pushの倍以上ある。
市民への救命教育を総合的に労力と資金を費やしてまで推進するのは以下の効果が極めて有用なためである。
1 外傷傷病者の救命
2 災害時の最大多数の最大救命
3 テロと戦争の抑止
救急車到着前にその場に居合わせた市民による手当が行われていれば傷病者の救命に効果大である。特に働き盛りの年齢層の死亡原因の上位を占める外傷死を減らすことが出来れば、国力の維持向上に役立つ上に医療費も抑えることができる。
ここで言う「災害時の最大救命」とは自然災害もテロのような人為災害にも共通して当てはまる。海外では戦争も災害として考える。市民が致命的大出血への対応能力を持っていれば、頭部や体幹部の重症外傷傷病者など、医師でなければ救命できない症例に限られた治療能力を振り向けることができる。災害が同時に多数の傷病者を発生させる一方で、治療は一人ずつ行う他はない。市民の誰もが救護能力を持つことは、災害時の治療能力の大きな資となる。
市民による救命止血法の普及はテロや戦争への抑止効果も期待できる。テロも戦争も目的を達成するために最大多数の殺傷を狙うものであるが、市民が高い救護能力を有していれば、まず、パニック状態に陥るおそれが少なくなる。混乱状態の発生を抑えられることだけでも、相当な抑止効果である。テロを発生させたとしても、現場で整然と救護活動が行われ、治療能力が重症者と危機に対処する警察官などに集中して投入されるのであれば、テロを発生させた効果が減殺される。こうした対策がなされていることが周知されれば、テロを発生させようとする意志が弱くなる。予防に勝る治療が無いように、発生させないことが最良の対策である。市民への救命手当教育の普及は間接的な防衛力発揮であると言える。
救命手当教育Call CAB などの詳細は、http://tacmeda.com/を参照されたい。様々な公開資料もダウンロードして活用できる。
(4に続く。全4回)
(※1)ILCOR「イルコア」
International Liaison Committee On Resuscitation
ベルギーに本部がある国際蘇生連絡協議会
(※2)CoSTR「コースター」
心肺蘇生にかかわる科学的根拠と治療勧告コンセンサス
International Consensus Conference on Cardiopulmonary Resuscitation and Emergency Cardiovascular Care Science With Treatment Recommendations
日本では「JRC蘇生ガイドライン」として示される
本記事における医療監修
高須克弥 医学博士/高須クリニック院長
嘉数 朗/Kakazu Akira M.D.
日本循環器学会 循環器専門医
おもろまちメディカルセンター 循環器内科部長/Omoromachi Medical Center Cardiology manager
那覇市医師会理事/Naha City Medical Association Director
菅谷 明子/Sugaya Akiko M.D.
日本救急医学会 救急科専門医 社会医療法人かりゆし会 ハートライフ病院 血液浄化部医長/social medical corporation KARIYUSHIKAI Heartlife hospital
金城雄生/Yuki Kinjo M.D.
琉球大学医学部医学科脳神経外科学/Department of Neurosurgery Faculty of Medicine University of the Ryukyus
トップ写真:First Aid Training 出典:AUM OER flickr
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この記事を書いた人
照井資規ジャーナリスト
愛知医科大学非常勤講師、1995年HTB(北海道テレビ放送)にて報道番組制作に携わり、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、函館ハイジャック事件を現場取材の視点から見続ける。
同年陸上自衛隊に入隊、陸曹まで普通科、幹部任官時に衛生科に職種変更。岩手駐屯地勤務時に衛生小隊長として発災直後から災害派遣に従事、救助活動、医療支援の指揮を執る。陸上自衛隊富士学校普通科部と衛生学校にて研究員を務め、現代戦闘と戦傷病医療に精通する。2015年退官後、一般社団法人アジア事態対処医療協議会(TACMEDA:タックメダ)を立ちあげ、医療従事者にはテロ対策・有事医療・集団災害医学について教育、自衛官や警察官には世界最新の戦闘外傷救護・技術を伝えている。一般人向けには心肺停止から致命的大出血までを含めた総合的救命教育を提供し、高齢者の救命教育にも力を入れている。教育活動は国内のみならず世界中に及ぶ。国際標準事態対処医療インストラクター養成指導員。著書に「イラストでまなぶ!戦闘外傷救護」翻訳に「事態対処医療」「救急救命スタッフのためのITLS」など
LINE@ @TACMEDA