「東西冷戦の終わり」の真実 平成時代の世界 1
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視 」
【まとめ】
・戦争責任論とともに平成は幕を明けた。
・マルタ島での「米ソ両首脳の冷戦終結宣言」は日メディアの誤報。
・平成は日本資本主義の正当性を感じされる時代となった。
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平成時代がいよいよ終わる。
その平成の幕開け、1989年1月7日は私はイギリスの首都ロンドンにいた。産経新聞ロンドン支局長としての在勤だった。私事ではあるが、私はその2年近く前に20年余り、勤めた毎日新聞を退社して、産経新聞に入社していた。その産経での最初の勤務がロンドン駐在だったわけだ。
ロンドンでは昭和天皇のご病状の悪化が伝えられると、イギリス側で第二次世界大戦中、日本軍の捕虜となっていた元将兵たちから非難の声がどっとわきあがった。戦争の責任、とくにイギリス人捕虜の虐待の責任は最終的に昭和天皇にあるとして、謝罪を求める声だった。
この元捕虜たちはイギリス各地に1万人は存在するとされた。いずれも戦後、イギリス社会で活躍してきた人たちだった。この人たちがビルマ(現在のミャンマー)やシンガポールで大量に捕虜となっていた。そしていまや昭和天皇がこの世を去るというのであれば、最後に改めて謝罪をせよ、という動きだったのだ。
この要求にはいくつかの点でおかしなところがあった。そもそも昭和天皇が日本軍の戦場での行動や捕虜の扱いに直接に責任はなかった点だろう。さらには日本軍が実際に冒した戦場での犯罪は戦後、徹底して追及され、処罰されたという点である。もうすでに裁かれて、しかも戦後のイギリスと日本との講和で、その種の案件は解決ずみとされた点も大きかった。
だがイギリスの元捕虜たちの昭和天皇糾弾は新聞やテレビでも大々的に報じられた。その際に「ではいまの日本側がこの糾弾にどう応じるか」という点も提起された。日本側の言い分である。この点は非常に重要だった。日本側でこの種の海外での問題にだれがまず答えるのか、ふつうに考えれば、日本政府の代表だろう。イギリスでのこの場合、ロンドンに存在する日本大使館ということになる。だがそこは沈黙のままだった。日本の外交官が戦争の責任や皇室の在り方について公開の場で語るというのは、日本の官僚制度の特徴をみれば、無理な話しではあった。
▲写真 天皇御服を着用した昭和天皇 出典:Wikimedia Commons
そんな状況下でイギリスのテレビ局から私のところに日本側の主張を述べてほしいという要請がきた。よく考えた末に応じることにした。日本側の主張の表明というのは、ジャーナリストにとっておこがましい話しである。だが他にその主張をイギリスに向けて語ろうとする日本人がいないのだという。その結果、私が僭越ながら日本側の民間スポークスマンのような形となった。
天皇とか皇室だけに留まらず、日本全体がこれだけ非難されて、日本側からの反論が何もないという状態はあってはならないと痛感したわけである。一度、テレビの討論番組で日本側の説明をすると、その他のテレビ局やラジオ局からつぎつぎに注文がきた。後でざっと数えたら、昭和の最後の数ヵ月間にイギリスでテレビ、ラジオ、討論会など合計して30回ほどもこの課題で発言した。
▲写真 第二次世界大戦 イギリス歩兵 出典:帝国戦争博物館
昭和の終わり、平成の到来という時期に私はそんな特殊の体験をしたのだった。平成の幕開けという時点では国際社会では日本はまだまだ戦争の重荷を背負わされていた、ということだろう。
ではこの平成の30年間、日本を囲む国際情勢はどう変わったのか。その変化の潮流は当然、日本自体の変化とも絡みあってきた。その平成時代の世界の激変を私自身の国際報道体験に重ねて、まず3例ほど挙げてみよう。
第1には、アメリカとソ連が対決した東西冷戦の終わりである。
この激変は日本ではよく「東西冷戦構造の崩壊」などと評されるが、現実にはソ連の共産主義体制の敗北だった。
アメリカとソ連が思想、政治、軍事、経済と、人間集団の活動の全ての面で競いあい、ぶつかりあった結果、アメリカ側が勝ったのである。日本も完全にアメリカ側についていたから、日本にとっての勝利だとも言えた。
その東西冷戦の終わりは日本では1989年12月2日に地中海の島国マルタで開かれた米ソ首脳会談で実現したという解釈が多いが、正確ではない。マルタで冷戦の終わりへの宣言或いは期待を述べたのはソ連のゴルバチョフ氏だけだった。しかもアメリカとソ連の構造的な対立はまだその時点では続いていたのだ。
私自身が現地で代表取材の一員にまで選ばれ、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領とミハイル・ゴルバチョフ国家最高会議議長との直接の質疑応答にまで加わることができた体験では、このとき「冷戦の終わり」という言葉を口にしたのはゴルバチョフ氏だけだったのである。
▲写真 東西冷戦の端緒ともなったヤルタ会談 出典:国立公文書館
ブッシュ大統領は「米ソ両国は新時代に入口に立っている」と述べた程度だった。「冷戦」という言葉さえ述べていなかったのだ。ソ連側ではなお共産党独裁政権や強大な軍事態勢がそのままだった。だからマルタ島での「米ソ両首脳の冷戦終結宣言」というのは日本の主要メディアの誤報だとも言えた。
では東西冷戦の本当の終わりとはいつだったのか。それは1991年12月にソ連共産党が解体され、ソ連共産党政権が倒れ、ソビエト連邦という国家が崩壊した時点である。
要するにソ連が標榜した共産主義の歴史的な敗退こそが東西冷戦の終わりだったのだ。国際的にも東西冷戦の終わりと言えば、この1991年12月という定義付けが一般的である。平成3年だった。
だが日本では冷戦の終結は平成元年、1989 年のマルタ会談であり、冷戦構造が崩壊したと総括される。ソビエト連邦やソ連共産主義の敗北や崩壊だとは表現しない向きが多いのだ。この国際的には異端の歴史認識には私はやはりソ連共産主義の敗退を正面から認めたくない、という日本の戦後独特の思想傾向を感じてしまう。
だがそれでもなお平成時代の日本はこのソ連共産主義政権の崩壊による東西冷戦の終わりによって巨大な影響を受けることになった。簡単に挙げるだけでも、日本が戦後の東西冷戦のなかでアメリカ側に身を置くという国家安全保障上の判断の正当性、共産主義や社会主義を排して米欧型の自由民主主義の体制を保った政治的判断の正当性、そして自由や民主という概念から派生する資本主義を基礎とする市場経済政策を選んだ経済面での判断の正当性などだと言えようか。
もっともソ連共産党政権や共産主義一般への同調を示した日本の左翼陣営には明白な形での反省や自責は少なかった。敗北や錯誤を自認する向きもまずなかった。
非左翼勢力の側でも共産主義信奉を説いた側への糾弾は少なかった。この辺は黒か白かの対決を避ける日本の精神風土のせいなのだろうか。
(2につづく。全3回)
トップ写真:マルタ島でのブッシュ大統領とゴルバチョフ議長との対談 出典:国立公文書館
【訂正】2019年4月28日
本記事(初掲載日2019年4月27日)の冒頭【まとめ】の部分で「日本医資本主義」とあったのは「日本資本主義」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。本文では既に訂正してあります。
誤:・平成は日本医資本主義の正当性を感じされる時代となった。
正:・平成は日本資本主義の正当性を感じされる時代となった。
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。