ベルファスト合意成る、しかし 悲劇の島アイルランド その6
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・IRAが過激になるきっかけは「血の日曜日」事件。
・サッチャー政権のIRA討伐がその過激さにさらに拍車。
・サッチャー政権の「力の解決」という路線は、程なく破綻。
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IRAによる反英テロについてはすでに見てきたが、実は私自身、ロンドンで結構きわどい目にあったことがある。
1992年4月、英国の総選挙を取材すべく、駆け回っていた時のことだ。マーガレット・サッチャーはこの前年に辞任し、後継者となったジョン・メージャーの人気がいまひとつであったことから、野党であった労働党が政権奪回に成功するのでは、と見る向きが多く、政権交代の瞬間に立ち会えるかも知れない、と期待したものである。
同じ事を考えたのが、かの田原総一朗氏で、当時フリーになって間もない私は、『週刊ポスト』からの依頼で田原氏の取材をアシストする、といった役回りであった。
忙中閑ありで、ちょっと時間ができた時に、田原氏が、「折角だから、シティというところをこの目で見たいな」と言い出した。そこで、氏に同行してきた編集者を加えた3人で、証券取引所の近くにタクシーを乗り付け、付近を散策した。
翌日、ちょうど我々が車を降りて歩き出したあたりで、ドッカーン。
……このエピソードは、私の最初の単行本となった『英国ありのまま』(中央公論社・電子版はアドレナライズより配信中)でも取り上げた。単行本では日本の「高名なジャーナリスト」としておいたが。田原氏が中公文庫版の解説を引き受けて下さり、これは自分のことだ、と明記していただいたので、本稿では実名にさせていただいた。
幸いなことに、在英日本人がテロに巻き込まれたということはなかったのだが、シティ以外にも有名なデパート「ハロッズ」が狙われたこともあったし、いつなにがあっても不思議ではない状況だったのである。
前回述べたように、IRAは最初からテロ集団だったわけではない。しかし、独立運動が過酷な弾圧にさらされる中、平和的なデモや抗議運動だけでは埒が明かない、とする過激派が台頭し、ついには組織の主導権を握ったのだ。
直接のきっかけは、1972年1月30日に起きた、世に言う「血の日曜日」事件である。この日、北アイルランドの中心都市ロンドンデリーでは、裁判なしでの拘禁を認めていた当時の法令に抗議して、およそ1万人の市民が、抗議集会後にデモ行進を行った。
▲写真 「血の日曜日」事件 出典:Flickr; Sonse
これに対して英国政府は、警察ではなく陸軍の精鋭である空挺連隊を警備に動員し、自動小銃を携えた兵士たちをバリケードの内側で待機させていた。そして、デモ隊の一部が投石したのをきっかけに、銃撃が加えられ、13人が死亡。さらに14人が銃撃や警備車両に轢かれる被害に遭い、重軽傷を負ったのである。
この事件以降、IRAは英軍や政府の施設を狙ったテロを繰り返すようになり、これも前回述べた通り、王族やサッチャー元首相までが標的とされた。
そして1980年代後半になると、当時のサッチャー政権が、事態をエスカレートさせてしまう。「英国政府はテロリストに屈することはない」
と勇ましく演説した彼女は、今度はSAS(スペシャル・エア・サービス=英陸軍特殊空挺隊。前述の空挺連隊とは別組織)を動員してIRA討伐に乗り出した。
▲写真 サッチャー元首相 出典:Flickr; Levan Ramishvili
1988年3月には、イベリア半島西端の英領ジブラルタルにおいて、3人のIRAメンバーが射殺されたが、彼らは英軍基地へのテロを企てていたとされたものの、射殺された時点では武器はなにも持っていなかった。
同年8月には、北アイルランドで国道を走行中の乗用車がSASに銃撃され、やはり3人のIRAメンバーが死亡した。
この時は、車内からソ連製AK47突撃銃などが発見されたが、こうした一連の作戦に対して、英国の一般市民が「あっぱれSAS」と拍手喝采であったかと言えば(もちろん,そういう人もいたが)、少し違う。前者については、裁判どころか逮捕状も取らず、しかも確たる物証もない容疑者を、いきなり死刑にしたようなものではないか、との声が上がったし、後者についても、どちらがテロリストか分からない待ち伏せ攻撃ではないか、との批判があった。
これまた『英国ありのまま』にも書かせていただいたのだが、テロというのは無法な暴力には違いないが、やる方も命がけである。死をも長期投獄をも恐れない、という決意がなければ、テロリストにはなれない。
そういう連中に対して、テロを企てただけで命がないぞ、と言わんばかりの脅しを加えても無駄なのである。サッチャー元首相は、そこが理解できていなかった。
げんに、仲間を殺されたIRAは、怖じ気づくどころか復讐の鬼と化し、1990年代に入るや、テロを一段とエスカレートさせたのである。
おかげで私までが危なかった、などという話は今さらどうでもよいのだが、こうした「力の解決」という路線は、程なくその破綻が明らかとなった。
IRAの側も、爆弾テロをいくら繰り返しても、一般市民に見放されるだけで政治的には逆効果だと気づいたのだろう。前述の総選挙で、保守党メージャー政権が勝利し、国民の信任を得た形となってからは、和平交渉が本格的に進められたのである。
▲写真 IRA 出典:Flickr;National Library of Ireland on The Commons
後に明らかになったことだが、IRAによる爆弾テロが頻発している間、爆破予告とイタズラ電話を区別するため、警察との間で極秘の暗号が取り決められていたという。
当然ながら、取り決めに応じたIRAの側にも、なんらかのメリット(おそらくは)受刑者の待遇改善など)があったと思われるが、いずれにせよ、テロと弾圧の連鎖が無限に続くのでは、と思われる中、和平交渉を始める下地はちゃんと作られていたわけで、このあたり、英国人はやはりしたたかだと思わずにはいられない。
かくして1998年4月10日、ベルファスト合意が成立。
カトリック、プロテスタント双方の政党が参加する北アイルランド政府・議会が新たに立ち上げられ、英軍の大半は撤退。一方、IRAはテロ路線を公式に放棄し、アイルランド共和国でも、国民投票を経て憲法の一部を改正し、アルスター6州=北アイルランドに対する領有権の主張を放棄した。
これで八方丸く……と行けばよかったのだが、いつの時代、どこの国にも分からず屋というのはいるものだ。
IRAの内部で、テロ放棄と和平合意をよしとしない一部の者が「真のIRA」と称する別派を旗揚げし、散発的ながら反英テロを引き起こしている。そこへもってきて,ブレグジットを巡って、アイルランド全土がなにやらきな臭くなってきた。
宗教対立と格差問題に翻弄され、悲劇の歴史に彩られたこの島国が、本当に「世界一住みやすい国」の評価を確立できるのは、いつのことだろうか。
トップ写真:血の日曜日事件 追悼日に遺族によって捧げられた旗と十字架 出典:Wikimedia Commons; SeanMack