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.国際  投稿日:2019/5/28

宗教改革が宗教対立へ 悲劇の島アイルランド その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

 

【まとめ】

・「イギリス」の正式な国名は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」。

・アイルランドの歴史は宗教的政治的な抗争の歴史。

・宗教対立がアイルランドの歴史を悲劇に満ちたものにして行く。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=45980でお読み下さい。】

 

日本人が一般に「イギリス」と呼ぶ場合には、ヨーロッパ大陸の北西沖に浮かぶ大ブリテン島を念頭に置いているようだ。その大ブリテン島のさらに西方沖に浮かぶ島国がアイルランドだが、ここは南北に分断されており、北部は「イギリス」の一部である。

 

今あえて「イギリス」と呼んだが、正式な国名は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」で、日本でイギリスという呼称が定着したのは、イングランドのポルトガル語訛りから来たものだと言われている。

 

したがって私は、イギリスというのは日本語の、それも誤った俗称に過ぎないと見なし、歴史的呼称としては「イングランド」を、そして現在の国名を略す場合は、日本でもなじみ深い「英国」を採用している。

 

これが、かの国の歴史を多少は勉強した者の態度だと信じているからだが、何故そのように考えるに至ったかは、本シリーズの中でおいおい説明させていただこう。

 

本シリーズで話題の中心となるのは、アイルランドである。緑豊かな、のどかな島国だが、その歴史は宗教的・政治的な抗争の悲劇に彩られており、昨今はまた、英国のEUからの離脱問題、世に言うブレグジットによって、またもや血生臭い抗争が再燃する危険が取りざたされている。

 

写真)Brexit Protestors London 2018年12月

出典)Flickr; ChiralJon

 

少し話が(2400年ほど笑)戻るが、この島の住人はケルト人と呼ばれ、日本では「ケルトの島」という別名まである。もう少し具体的に述べると、多神教を軸とするケルト文化を受容した人たちは、ヨーロッパ中部平原(ドイツ、フランス、オーストリアなど)からスペイン北部、東欧にまで生活圏を広げていた。

 

しかし、それだけ広範囲に生きた人々の間に、民族的一体感が存在したとは考えられておらず、現代の民俗学や考古学では「ケルト系」という大雑把な定義づけがなされている。

 

サッカー元日本代表の中村俊輔が在籍していた、スコットランドの強豪クラブは,その名をセルティックと言うが、そのものずばり「ケルト人の」という意味だ。ケルティックと発音する人も多く、アイルランドの民俗楽器である竪琴はケルティック・ハープとして日本でも知られている。

 

写真)ケルティック・ハープ

出典)Flickr; Bea

 

ケルトと聞くと、アイルランドやスコットランドを思い浮かべる人が多いのは、このように、未だにケルト文化を色濃く残しているからだが、伝統的な民俗学では、ヨーロッパ大陸に広大な生活圏を持った人々を「大陸のケルト」と呼び、現在の英国で暮らしていた人々を「島のケルト」と呼ぶ。

 

ただ、遺伝子解析技術が長足の進歩を遂げた結果、大陸のケルトと島のケルトとの間には、血縁関係があるとは言い難いことが分かってきた。別の言い方をすれば、大陸のケルトの一部が海を渡ったのだろう、という従来の学説が否定されつつあるのだ。

 

ではなぜ言語的・文化的共通性があったのかという疑問が浮かぶが、おそらくは長きにわたる交易の結果であろうと、最近の研究者は考えているようだ。そもそも多神教や森の妖精伝説などは、いにしえの日本列島にもあり、そうした世界観は、近年『もののけ姫』という映画に描かれたりもしている。

 

ともあれ、島のケルトは、大陸においてローマが勃興し、やがてブリテン島南部が属領ブリタニアとなってからも、その支配を受けることはなかった。

 

この属領ブリタニアこそ、ブリテンの語源だが、もともとは、島の南部に上陸してきたローマ軍団に最初に立ち向かった、ケルト系のブリトン族から来ている。

 

つまり、ブリタニアとは正確に言えば現在のブリテン島南部のことで、北部はカレドニアと呼ばれていた。森の国、といったほどの意味であるらしい。いずれにせよローマの支配下に入らなかったことが、島のケルトが文化的独自性を保ち続けた理由である。

 

さて、紙数の関係で、ここからは少し急ぎ足で歴史をおさらいしなければならないが、ローマにおいてキリスト教が、4世紀までには国教の地位を確立したことは、よく知られている。

 

少し後れて5世紀には、今もアイルランドの守護聖人とされる聖パトリックによってキリスト教の伝道が始まったが、この島の人々は、まことに穏健にこの教えを受け容れた。殉教者をほとんど出さなかったのである。

 

写真)アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日に行われる聖パトリックの祝日の様子

出典)Pixabay;Lisa Larsen

 

イングランドにおいて、初代カンタベリー大司教が任命されて伝道が本格化するのは、6世紀に入ってからのことなので、キリスト教文化圏に組み込まれた歴史でも先んじたことになる。これと並行して、ブリテン島南部では「政権交代」が起きていた。

 

 

ローマの版図が、ゲルマン民族の脅威に直面したという理由で、属領ブリタニアが放棄されたのだ。409年のことである。

 

その後この地を支配したのはサクソン人で、いつしかローマ人に代わってブリテン島南部に進出した人たちが、アングロサクソンと呼ばれるようになった。

 

サクソン人もゲルマン民族の一派ではあるのだが、現在のドイツ人と同一視する人はほとんどいない。ただ、ドイツにザクセンという地名があることからも分かるように、民族の歴史にその名を留めてはいる。

 

この頃のブリテン島北部だが、依然として島のケルトの版図であり、彼らはアングロサクソンから「スコッツ」と呼ばれた。もともとは中国人から見た「倭人」のような、蔑視を含んだ呼び方であったらしいが、現在もここは「スコッツの土地=スコットランド」と呼ばれており、地元の人々は「我々はイギリス人ではない。スコッツだ」と胸を張っている。

 

こうした関係に大いなる変化が生じたのは、16世紀の宗教改革がきっかけだった。

 

マルチン・ルターによる宗教改革運動が始まったのは1517年のことだが、イングランドにおいては、1534年に時の国王ヘンリー8世が、自身の離婚問題も絡んで、ついにはローマ法王庁と決別してイングランド国教会を立ち上げた。

 

写真)マルチン・ルター

出典)Cranach Digital Archive

 

この動きはスコットランドにも波及し、スコットランド聖公会(国教会とも言う)を含むプロテスタントの勢力が大いに伸びた。一方アイルランドでは、カトリックの信仰を守る人が圧倒的多数であった。現在も人口の95パーセントがカトリック信者だとされる。

 

このようにして、宗教対立が芽生えたことが、アイルランドの歴史を悲劇に満ちたものにして行くのである。

 

(2に続く、全6回予定)

トップ写真)アイルランドの城

出典)Pixabay;Andreas Senftleben


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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