パフォーマンス理論 その21 ゾーンについて
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
【まとめ】
- アスリートがパフォーマンス中に強く集中し、主体の曖昧さ、演じる自分と観察する自分の分離が起きる現象をゾーンという
- ゾーンは意識的に入れるものではなく、対象物に夢中になっている時に起こる
- パフォーマンスの技術が無意識に出てくる状態がゾーンに入る前提
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アスリートなどパフォーマーがパフォーマンスを行う際に強く集中した状態のことは、ゾーンと呼ばれている。フローと定義が近いと思うが、実際のところはゾーンがなんなのかはよくわかっていない。アスリートはよく記憶の後付け再構成をするから、もしかしてただパフォーマンスが高かった時に高揚して自分の体験を美化しているのかもしれない。奇跡の脳というもののなかでジルテイラーが、脳卒中になった時に自分と自分が手をついている壁との境目がわからなくなった、そしてそれは幸福な体験だったと語っている。このような自分と外界との協会が曖昧に感じられる現象とゾーンが近いのではないかと私はひそかに考えているが、科学的にどう観測するかは相当に難しいらしい。ここでは、一応ゾーンは存在するのではないかという前提で話を進める。
古くは、オイゲンヘイゲルの弓と禅や、世阿弥の風姿花伝で語られているように、主体の曖昧さ(自分が弓を打っているのか弓が自分に打たせているのか)、または演じる自分と観察する自分の分離などがあげられる。球技系の競技では上から見ているようだったとか、球が止まって見えたとか、仲間が息を吸ったのがわかったとか、格闘技では相手が次に何をするかがわかっていて戦っていたなどがある。思うに、他者に評価をゆだねるような演技系競技では、自己の分離が起きやすく、タイムを追うような陸上型では自意識が曖昧になりやすく、球技系は全体把握や仲間との連携、格闘技では相手の心が読める、などが起きやすいのではないかと思っている。それぞれ競技毎に必要なものが強く感じられるのではないだろうか。私は陸上の経験しかないので、自意識が曖昧になる感覚が強いと思っていただきたい。
ゾーンにどうやれば入れますかと時々聞かれるが、準備はできても意識して入ることはできないと私は思う。ゾーンは睡眠に近く、布団に入りリラックスするところまではできても、この瞬間に意図的に寝るぞと言うことはできない。もっと言えば寝ることを忘れた時に寝ているのと同じように、ゾーンに入るときはゾーンに入ろうとしていることを忘れ、対象物に夢中になっている。ゾーンとは良い準備の結果なのだと思う。
人は何かを考えるときその対象物と距離を取る。頭で何かを思い浮かべる時に浮かべているものと観察する自分とは距離がある。対象と自分が全く一致している時にそれは観察しようがない。そして人間は基本的にはいつも様々な考えがバブルのように自分の頭の中に常時浮かんでは消えることを繰り返していて、それをコントロールはできていない。私のゾーン体験はこの距離をとって考えている自分がなくなり、自分が行為そのものになったという感覚だった。ゾーン体験も最中にそうだと意識されるわけではなくレースが終わって振り返った時にぼんやり感じられるというものだった。本やゲームに夢中になって気がついたら1時間経っていたという、あれに近い。私のゾーン体験は、しているという状態がなく、いつの間にかしていた、または気がついたらしてしまっているというのに近い。
意識のベクトルが対象に向いている時は問題ないが、意識が自分に向いたりまたは他者に向いた時にゾーンは阻害される。つまり将棋で言えば将棋の盤を見てどう駒を動かそうかと試行錯誤している間はゾーンに入りやすいが、考えている自分は外からどう見えているのだろうかという外への意識や、もしこれで負けたらどうなるんだろうはゾーンを阻害する。いまここはゾーンを促し、過去と未来と他人は阻害すると思ってもらうといいかもしれない。あれだけ簡単に二足歩行はできるのに、卒業式でみんながこちらに目を向けているとどう歩くのが正しいのかを考えて人は混乱し動きが滞る。ゾーンの際に我に返ってはならない。”いまここ”から離れた時にゾーンは壊される。
具体的にはどうすればゾーンに”入りやすい状態”を作れるのか。まず何よりもその行為をすること自体を忘れられるようになっていなければならない。ペダルを漕ぐことに一生懸命な人間は、風景を見渡して観察することはできない。自分が行うスポーツの技術が無意識に出てくるようになっていることがゾーンに入る前提となる。その状態でさらに自分の体調が優れていなければならない。自分の体を動かすこと自体が心地よいと思えない状態では、動きのことが気になって没頭できない。
陸上でも人によって好きな準備の仕方は違う。選手によっては発散型の人もいて、いざ本番の時までなるべくいつも通りしていたいという人もいるが、私は内向的だったのでむしろ自分の世界に潜り込んでいく方がやりやすかった。自分の世界に入っていく時に邪魔になるのが顔だ。人間は顔が相手に見えていることを常に意識している。目が合えば話しかけ、表情を見て対応を決める。原始宗教でトランス状態に入る際に仮面を被る儀式は多いが、単純に精霊を模しているというよりも、その状態の方が自分ではない何者かになりやすかったのではないかと思う。顔の情報量は多い。
私にとっての試合前の儀式はトイレに行って能面のような顔を作り、自分の世界に入ることだった。人間は表情で対応を決めているので、そう行った表情を一旦作ってしまうと、人は容易に近づいてこなくなる。私にとってはその表情が社会と自分を分断する為のきっかけだったように思う。ちなみに無駄話になるが、ゾーンの際は自分ではない何者かに化けるのか、または本来の自分が出てくるのかどちらなんだろうと疑問に思っていた。何を持って本来の自分とするかにもよるが。
ここまでくるとあとは委ねるだけの状態に入るのだが、この委ねるところが難しかった。委ねることとは自分をさらけ出すことなので、自我が強い私にとっては自分をさらけ出すことが怖かった。子供が初めて水の中につかって力を抜けばちゃんと浮くといくら説明してもうまく力が抜けないのに似ていて、恐れと危険の区別が初めはつかない。一つ一つ玉ねぎの皮をむくように自分の恐れ(社会的に取りたいポーズ)を解いていき、徐々に自分を委ねることができるようになった。とはいえ、他人と比べ比較的この委ねる行為は得意だったように思う。余談だが、ナルシストの選手は委ねることができなくて苦しんでいるように見えたが、他人の目が気にならないほどのナルシストはむしろ勝負強かったようにも思う。この辺りも興味深い。
うまくいった時を例に出すと、自分が二重人格の人間だとして、試合前の準備までは自分がやって、いざ試合の直前に自分の意識をもう一人の自分に明け渡し、相手が行ったパフォーマンスを行い、こちらは身体に残る余韻で悟るというのに近かった。覚えているレース中の感覚は、いつもより少し目線が高く風がすり抜ける感じが強いことと、それから音が小さくなり足音が大きく感じることだろうか。そしていつも300m付近で自分がトップを走っていることに気づいて我に帰り、あとはひたすらに頑張るという感じだった。もしかするとあのままゴールするという世界もあるのかもしれないが、その世界を見ないままに引退をした。
私がゾーンだったのではないかと思う体験は、2001世界陸上決勝、2005世界陸上決勝、それと2008日本選手権決勝の三つだった。いずれも共通しているのは強い緊張、勝って当たり前ではなく勝てたら儲けものであること(期待が高すぎない)、勝った場合に何らかの驚きを他者に与えるもの、であった。私にとってのゾーンは胡蝶の夢の世界に近い。
追記-昔前の僧侶にお話を伺った時に、禅病なるものがあると教えてもらった。それは禅の最中外界との融合体験をしたあとそれを追体験することが目的化することだとおっしゃっていた。ゾーンも似たようなところがあり、あくまでパフォーマンスを高めるためにゾーンはあり、それ自体は目的ではない。
トップ写真)Pixabay Photo by Pexel
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。