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.国際  投稿日:2019/10/16

令和時代になぜ憲法改正 その3 改憲を求めるアメリカ


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・軍事的に無力な日本の安保を担ってきた米国が公然と不満表明。

・「小切手外交」が冷笑され、日本は身勝手な異端の国扱いされる。

・日本の憲法改正を求める米国内の声はすでに27年前に存在。

 

さて日本国憲法とアメリカとの特殊なかかわりの第二は日米同盟という言葉ですべてを説明することもできる。

 

アメリカは日本が現憲法のままでは外部からの軍事的脅威に無力となることは知っていた。だから日本の国家安全保障はアメリカが引き受けるという政策を決めた。1952年4月に発効した旧日米安全保障条約に基づく同盟関係がその基盤となった。

 

このときの安保条約は米軍が日本国内の基地を自由に使うことで実際上は日本の防衛をも受け持つという枠組みになった。だが条約ではっきりと米軍の日本防衛を明記してはいなかった。その点を堅固にしたのが1960年の日米安保条約だった。この条約は現在もそのままであり、日本が外国から軍事攻撃を受ければ、米軍も共同対処することを規定していた。

▲写真 1960年に効力が発生した日米安全保障条約。外務省外交史料館で展示されている署名(2009年撮影)。

出典:Wikimedia Commons; World Imaging

 

それ以降、現在にいたるまで日本の国家安全保障、つまり自国の防衛はアメリカの強大な軍事抑止力に依存してきたわけだ。日本はあくまで最小限の防衛力を持つだけで、「専守防衛」という自己規制を課してきた。この点も異端だった。もちろん憲法が理由である。

 

アメリカは日本が軍事面で自衛さえも抑制するという異様な態勢を受け入れてきた。日本はむしろ軍事的に弱いままでアメリカに頼るという構図が歴代アメリカ政権の対日政策の基本でもあった。換言するならば、日本は世界でも例外的な日本国憲法を保持したままでよいというのがアメリカ政府の政策でもあったのだ。

 

ところがいまではアメリカのその対日政策の基盤となる実情がすっかり変わってしまった。意図も認識も変わってきた。その間には半世紀以上の歳月が流れ、国際情勢が激変していた。

 

アメリカ側の日米同盟に対する姿勢の最初の変化は1980年だった。その前年の79年末にソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻した。全面的な軍事占領作戦だった。

▲写真 アフガニスタンに展開するソ連軍(1984年)

出典: Wikimedia Commons; Public domain

 

アメリカの時のジミー・カーター大統領はそれまでの自分の対ソ連観がまちがっていたと宣言し、ソ連の軍事膨張へのグローバルな対抗策をとった。その際に日本に対しても防衛費を「着実かつ顕著に増加してほしい」と要請するようになった。それまでの対日安保政策からは画期的な変化だった。ただし日本はその要請にほとんど応じなかった。

▲写真 ジミー・カーター第39代大統領(1977年1月)

出典:Wikimedia Commons; Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center (Public domain)

 

その後の1980年代は日本経済の膨張の時期でもあり、アメリカには日本からの自動車、電気製品など良質で廉価の商品がどっと入り、米側企業が退潮した。日米貿易摩擦である。この時期には日本が防衛面でソ連の脅威に対応する負担を果たさないという米側からの抗議が起きた。日本の防衛面での「ただ乗り」非難だった。

 

だがそれでも日本は東西冷戦中、自国の防衛は日米同盟によってアメリカに依存するという基本枠組みを保ち続けたのである。憲法9条による自国防衛の欠落をアメリカの軍事力で補うということだった。アメリカ側でもこの枠組みを保ち、日本の防衛の負担を肩替わりする意図は揺らいでいなかった。

 

ところがアメリカ側では1991年ごろから日本の防衛政策に対して、より公然とした不満を表明されるようになった。この年はソ連の共産党政権が完全に崩壊した東西冷戦の終わりを画していた。国際的な脅威の形態や特徴が変わってきたのだ。

 

1991年1月からの第一次湾岸戦争ではクウェートを軍事占領したイラク軍を撃退する多国籍軍の先頭に立ったアメリカは日本にも直接の貢献を求めた。だが憲法により集団的自衛権の行使も海外での戦闘もできない日本は非軍事要員の派遣さえできず、カネだけを払った。日本のこの態度は国際的に「小切手外交」として冷笑された。日本は国際平和のためにも、同盟国支援のためにも、実際の防衛行動はとらない身勝手な異端の国とレッテルを貼られるようになったのである。

▲写真 湾岸戦争、砂漠の嵐作戦。米空軍戦闘機(1991年)

出典: Wikimedia Commons; U.S. Air Force (Public Domain)

 

アメリカ各界でも日本が多国間でも二国間でも他国と対等な防衛努力ができない状況は日米関係にとっても有害だと批判する向きが増えてきた。

 

そんな時期の1992年、アメリカでは日本に憲法の改正を公の場で求める動きが初めて起きた。ワシントンの保守系の大手研究機関「ヘリテージ財団」が「日本の国民精神の再形成」と題する報告書で日本を責任ある同盟パートナーとするためだとして日本国憲法改正を提言したのだった。この提言は厳密には当時のブッシュ政権に対して日本の憲法改正を非公式な形で促すことを勧告していた。

▲写真 ヘリテージ財団

出典: The Heritage Foundation facebook

 

「日本は憲法ですべての力の行使を否定したため、政府も国民も力の行使が重要な要因となる現実の国際情勢を正しく理解できなくなった。国際平和維持活動にも参加できず、同盟国のアメリカの軍事行動も助けられなくなった」

「アメリカ政府はいまや日本に民主主義を守るためには力の行使の可能性が否定できないことを認識させ、自国が全世界でも例外だという意識をなくさせるためにも日本に非公式に憲法改正を促すべきだ」

 

こんな趣旨の提言は傲慢な基調でもあったが、日米同盟の強化という目的は前向きだった。いまトランプ大統領が語る日米同盟不公正論と根も幹も同じくする改憲の勧めは、すでに27年も前にアメリカ側に存在したのである。

 

(その4につづく。その1,その2 全4回)

 

 註 この記事は日本戦略研究フォーラム季報(2019年10月刊行)に掲載された古森義久氏の論文の転載です。4回にわたって掲載しています。

 

 

▲トップ写真 G20大阪サミットでの日米首脳会談(2019年6月27日)

出典: Flickr; The White House (Public domain)


この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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