私のパフォーマンス理論 vol.42 -引退-
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
【まとめ】
- 選手には必ず引退の時が来るため、それを受け入れる必要がある
- 引退後の人生で重要なことは、新しいアイデンティティを見つけること
- アイデンティティとは自分の能力の発揮ではなく、何かの役割を果たしているという感触からくるもの
選手には必ず引退の時が来る。人生を賭けてきたものが失われるのは辛く寂しい。理屈上は引退をしない人生もあるが、少なくともどの選手もいつかはトップの世界では戦えなくなる。選手はその時を受け入れなければならない。
引退を決意するきっかけは選手それぞれだ。競技人生そのものよりも、むしろ引退の時に私は選手の価値観が現れると思っている。美しいまま引退したい人も、ボロボロになりたい人も、次の人生が始まるから引退する人もいる。私の実体験をもとに引退前後でどのような心の動きがあるかを書いてみたい。
まず、引退を考え始めたのは28歳の時だ。最初は30歳の北京五輪で引退しようと思っていた。ところが、実際に北京の前年の大阪世界陸上と、北京五輪は両方うまくいかなくて予選で敗退した。北京の前にはアキレス腱に三度痛み止めを、左膝に二度痛み止めを打った。間を空けずに打つと腱を弱めるという説明を受けたがこれが最後だと思い打った。私はコーチを自分でやっていたから、北京の後はもう厳しいというのは頭では分かっていた。一方で、競技者である自分はこのまま終わりたくないと強く思っていた。最終的に競技者の自分が勝ち、現役を続けることにした。
引退前の4年間は毎日気持ちが揺れ動いた。ある時はもう俺は終わりなんじゃないかと思い、ある時は俺ならまだやれると強気になる。1日の間にこの二つの感情の間を何度も揺れた。私は最初の五輪からずっと代表になっていたが、初めて代表を外したのが33歳のときだった。これはショックだった。さらにこの頃ショックだったのは1台目のハードルまでのタイムに狂いが生じたことだ。5″7だと思ったら5″8だったり、何度走ってもこのぐらいだと思ったタイムと0.1秒ずれるようになった。私は世界に出ていくために、とにかく一台でもいいから世界一になるということを目標に、スタートを磨いてきた。それが武器だったし、自信もあった。もしスタートが通用しなくなったのなら、何を頼りにしていいかわからなくなった。もしかするとこの時に既に私の心は折れていたのかもしれない。
一度でもスポットライトを浴びたことがある人間は、自分が中心ではなくなったことに敏感に気付く。まずグラウンドに行った時に振り向く人の数が減った。さらに道を歩いていても気付く人の数が減った。私は長い競技人生で世間の評価などからは距離とって達観したと思っていたが、想像以上に心が揺らいだ。自分に価値がなくなっているという気持ちになった。競技外で何とか存在感を示そうとしたが、本心はとても虚しかった。少しずつ競技人生が終わりが近づいているのを察するようになった。
34歳、競技人生はあっけなく転倒で終わった。ショックだったが気が済んだとも思った。しばらく前から薄々気づいていたことが、ああやっぱりもうだめだったんだというのことがはっきりしたからだ。四年かけて確かめなければならないほど、私の人生は陸上しかなかった。引退して、最初にやったことは陸上競技関連のものを全て処分することだった。私は未練がましいので一気に方向転換しないとずるずるいくと思った。お世話になった人に送って後は全部捨てた。1日でユニフォームから何から、ランニングシューズすら何も家になくなった。
引退した後、何をやっても心が躍らない選手が多くいるだろう。私もそうだった。どこかにあの時と同じ気持ちになれるものがあるのではないかと探すかもしれない。だが、そんなものはないと思った方がいい。スポーツは身体活動を伴い、一瞬に感情が凝縮され、社会から大きな注目を得る。普通の人生では一度も味わわないような瞬間の感情を人生の前半に一気に味わう。プロであれば大きな賞金もついてくる。あんな一瞬に全てが凝縮された世界はスポーツ以外にほぼない。スポーツと比べればほとんどの世界は緩慢だし、もっと勝敗がはっきりしていない。まずこの現実をしっかりと直視するべきだ。
引退後の人生で重要なことは、新しいアイデンティティを見つけることだ。スポーツ以外で自分を表現する手段を持たなければならない。競技者は自分のアイデンティティをスポーツに一点投下している。だから、これがなくなった途端の喪失感が耐えがたいほど大きい。自分という存在が社会からなくなってしまったように感じるのだ。これはすぐに見つかるものではないから、時間をかけて探していくことになる。
アイデンティティを見つける際にプライドが邪魔になる。トップアスリートはプライドが肥大化している。それは個人のせいでもあるし社会側の圧力でもある。トップアスリートに見合う人生を生きなければならないという期待がのしかかる。そして自分もトップアスリートがそんなことできるかと思っている。この肥大化した自己評価をどう現実に合わせるかが重要だ。選手は昔話をする人たちと必ず会う。あの時は凄かったですねという話から、昔はすごかったのには今はこんなになってという話まで、評価は様々だ。その度に現在から過去に引き戻される。競技者の人生は静かに生きるには社会に共有されすぎている。社会で生きていくためにはこれにも慣れる必要がある。
昔の自分に見合う扱いをされるべきだと思っているし、また自分がやることも他の人より優れていなければならないと思っている。この競技時代の強がる癖が社会と軋轢を生み、社会から浮いた存在になる。社会との接点がなければアイデンティティは見つからない。選手は今この瞬間の等身大の自分をよく見つめそれに合わせなければならない。仮に野心があっても、一度縮めて小さくしてから再び現実と共に大きくすることが望ましい。
私の場合は運が良く、友人に会社に誘われ手伝うようになり、またメディアでの仕事もいくつかあった。さらに家族もいてコミュニティにも入っていたので少なくとも孤独感はなかった。ただ、アイデンティティはまた別の話で、生きてる感触があるかと言われるとあまりなかった。何しろ毎日体が痛くも苦しくもないし、全力を出さなくてもいいし、何も目指さなくていいわけだから。
しばらく悩んだが、ある時からアイデンティティとは自分の能力の発揮ではなく、何かの役割を果たしているという感触からくるものだと気がついた。その役割が唯一無二であるほどアイデンティティは強くなる。アイデンティティは結果として手に入るもので求めるものではない。誰かに貢献することでそれらは得られるわけだから、ベクトルを自分に向けたものから社会に向けたものに変え始めた。競技者は自分を中心に置いてどう戦い生き残るかの世界で生きているが、社会はむしろ協調でできている。自分を使って社会に貢献する。この転換は私にとって大きかった
私の引退後はスムーズに行った方だと思う。それでも5年ほどは不安定だった。選手は引退間際ですぐに答えを求めようとしすぎず、じっくりと競技人生とはなんだったのかを振り返って欲しい。最初に思ったこととは違うものが浮かび上がることもあるだろう。恐れずその都度舵を切り直して欲しい。競技人生だけに縛られて生きるには引退後の人生はあまりにも長く、そして世界は想像以上に広い。いつか競技人生で得た体験と、今の人生が繋がる時が来る。あのような激しい瞬間の喜びはないかもしれないが、社会の中に自分の役割を見出すことで、新しいアイデンティティを感じることができるだろう。
トップ画像:Pixabay by annca
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。